座談会「平成人による平成論」(2)昭和の遺産

(前回の記事はこちら)

金子:年齢順で行くと次は私ですが、その前に、昭和48年生まれの最年長である山本さん。『昭和精神史』を執筆された桶谷秀昭先生のお弟子さんで、亀井勝一郎の御研究をされています。

山本:私、どちらかというと個人的な話より大きな括りで話すほうが好きなんですが、本日の趣旨に合わせて、世代論も絡めながら話をしなければいけないなと思っております。

私が生まれた昭和48年は、第四次中東戦争を契機とするオイルショックの年でした。この時期になると、昭和40年代・50年代という呼び方よりも西暦で1970年代・1980年代と呼ぶ方が一般的になっていく時期です。その意味では「昭和」という意識が薄れつつある時期なんですけど、今振り返ってみると、「平成」と異なる「昭和」の雰囲気が残っていたなと感じます。

バブルの恩恵

山本:基本的に、我々の世代は本当に苦労知らずであったと思います。バブル経済で本当に美味しい思いをしたのはごく一部の人たちなんですが、この30年を振り返ってみると、一般家庭でも恩恵を被っていたのだと改めて感じます。

私は大学で非常勤講師もしていて、学生さんたちと話す機会がありますけれども、自分で学費を稼いでいる学生が普通にいます。それに比べて、我々の世代は親からの仕送りで一定の生活を保つことができた。アルバイトをするのも、学費を稼ぐためではなく、車を買ったりとか遊んだりするためでした。

そういうことに私自身は全く興味がなかったんですけども、かなり「昭和」の遺産を引き継いでいたなという感じがいたします。

「Windows95」の発売

山本:平成の30年間を振り返って、最も大きな転機となったのは、平成7年ではなかったかと思います。年少の皆さんも少しは覚えていると思いますが、ご存じの通り、阪神大震災があって、地下鉄サリン事件がありました。他にも戦後50年決議とか政治的な問題もあったんですが、そうした出来事の中で、「昭和」と区別するという意味で大きかった出来事、なおかつ今日にも大きな影響を与えている出来事として、「Windows95」の発売を挙げたいと思います。

「Windows95」は単なるパソコンの基本ソフトではありません。この登場により、それまで個々人だったものが、世界と繋がるようになった。さらに、それまでインプットだけだったものが、表現力を持つようになった。それが現在のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)へと発展します。先ほど佐波さんが共感力というお話をされましたけども、SNSの投稿に対して「いいね!」という反応することで表現欲を満たしていく時代が始まったのが、この頃ではなかったか。

世代の区切りとしての「30年」

山本:もう一つ、30年という時間は一世代の区切りなんですね。「世」という字は、「十」が3つ重なった形に由来していて、それゆえ「三十」という意味もあるんですよ。生まれた子供が成長して結婚し、子供が生まれて家庭が整うまでに30年くらい掛かると昔の人は考えたらしく、その意味でも30年というのは一つの区切りであると思います。

これに関連するのですが、「企業30年説」という話を聞かれたことがありますか。一般的に、企業の寿命は30年前後と言われているのです。これは、私自身の実体験とも符合します。(上皇)陛下から御譲位の意向が表明される少し前に、私は勤務先の倒産と失業を経験しました。

その会社は昭和50年代に操業し、40年目に終焉を迎えたのですが、会社の終わりを告げられたときに何かが終わったなという感じがしました。

ちょうどその前後あたりから、芸能界では昭和63年に結成されたSMAPが解散したり、昭和51年から『少年ジャンプ』に連載されていた秋本治のギャグ漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』が完結したりなど、大衆文化の面でも大きな変化がありました。この点でも、30年という一区切りを迎えたのではないでしょうか。

金子:ただ今、山本さんから「『昭和』の遺産」、「画期としての平成7年」というお話がありました。そこで挙げられた出来事について語る素材ともなるよう、私の生い立ちを振り返ってみたいと思います。

ロッキード事件

金子:私が生まれたのは、田中角栄首相がロッキード事件で辞職に追い込まれた昭和50年です。子供の頃、ニュースではロッキード事件の報道が頻繁にされていました。内容はよく分かりませんでしたが、「丸紅」なんて面白い名前の会社だなと思ったものです。中曽根康弘・河本敏夫・安倍晋太郎・中川一郎が争った昭和57年の自民党総裁選挙についても朧気ながら記憶があります。

私が生まれたのは名古屋市内ですが、町はずれの丘陵地に建つ2階建ての借家で両隣は空き地でした。そんな環境でしたから、蛇や蛙を見掛けることも珍しくありませんでした。我が家は自家用車がなかったので、繁華街へ出るにはバスと地下鉄を乗り継ぐ必要がありました。近所にはスーパーもありましたが、昔ながらの米屋や雑貨屋もあり、小銭を握りしめてアイスクリームを買いに行った記憶があります。

コンビニの普及

名古屋に住んでいたのは小学校2年生、すなわち昭和57年の夏までですが、大学2年生になった平成8年の夏に記憶を頼りに尋ねてみると様子は一変していました。地下鉄が延伸されて交通の便が良くなったせいでしょうが、借家は跡形もなく、両隣の空き地も併せて整地された上に小綺麗なマンションが建っていたのです。また、雑貨屋はコンビニエンス・ストアへと建て替えられていました。

現在、コンビニエンス・ストアの24時間営業を見直すべきという議論が出ていますけれども、そのリーディング・カンパニーである「セブン・イレブン」というチェーン名からも分かる通り、開業当初は「午前7時から午後11時まで」という営業時間が想定されていました。現に、平成の初頭でも、山梨県の山中湖畔にあるセブン・イレブンは深夜に店を閉めていたことを覚えています。

少し話が脱線しましたが、昭和の終わりから平成の初めにかけて小売業も大きな転換点を迎えていたということです。

先ほど、小学校2年生の時まで名古屋に居たと言いましたが、その後、自分の両親と同居したいという父が東京転勤を勤務先に申し出て、母や私たちは不承不承ながらも東京に引っ越しました。

まず最初に住んだのは国分寺市。転校というのは、本当に嫌なものですよ。まだ、同じ学区ならば良いけれども、私の場合は文化圏が全く違うところでしたから。

名古屋弁の「ほんで」は標準語では「それで」、同じく「しとる」は「している」となりますから、「変な言葉を喋っている」などと揶揄われるわけ。まあ、子供どうしのことですから、何とか溶けこむことはできましたが…。

その後、父の実家があった武蔵野市で祖父母と同居したのですが、ここの小学校が最悪でした。そもそも、小学校4年生にもなると既に人間関係が出来上がっているために転校生の居場所はありません。

日教組の反日教育

金子:加えて、学級崩壊はなかったのですが、日教組の巣窟だったんですね。国鉄の社宅もあった関係で左翼的な空気で、当然のことながら学校行事において国旗も掲げられないし、国歌の斉唱もありません。そんな環境に違和感を抱いていたところ、昭和61年の参議院議員選挙に立候補した赤尾敏の政見放送を見て衝撃を受け、これだと思ったんですよ。

勉強だけは出来ましたから、その冬から中学受験を目指して進学塾に通い始め、国立大学の付属中学に入学しました。もし、中学受験に失敗して地元の公立中学に進学していたらどうなったか、佐波さんの「スクールカースト」に関する話を聞いてゾッとしました。

というわけで、私には帰るべき故郷とか幼馴染というのが居ないんですよ。ですから、そういうものを持っている人が少し羨ましい。

それはともかく、入学した中学がまた左翼教員ばかりでした。冷戦終結の直後で、左翼が「共産主義礼賛」から「日本国家否定」へと方向性をシフトする時期でして、あらゆる機会を通じて「日本」否定のプロパガンダを行うわけです。この頃は、「右翼少年」という自意識を持っていましたから、そうした左翼教員と徹底的に戦いました。何とかして、三島由紀夫が自決に際して檄文で説いた「生命尊重以上の価値」としての「日本」を取り戻さねばならない、そのためには左翼的価値観を否定する論理を学ばなければならないと思いました。そのためには、戦前日本を「超国家主義」として全否定している丸山眞男が教鞭を執っていた東京大学へ行くわけには行かない。そうだ、大東亜戦争中に「近代の超克」を目指した京都大学で学ぼうと決めました。

同級生の多くは、東京大学へ進学し、医者や弁護士や官僚やグローバル企業の社員とか、社会的エリートになっています。彼らは日教組の教員の展開するプロパガンダを真に受けてはいませんが、私のように「生命尊重以上の価値」を模索するわけでもない。先ほど佐波さんが「冷めた」と仰ったけど、あらゆる物事は相対的なもので、右にせよ左にせよ特定の価値観を振り回すのは愚かで暑苦しい所業であると考えていたようです。そういう価値観から自由になり、その場その場で最も合理的と思われる判断をしていくことが成功の早道だと考えていたのでしょう。

当時の私は、京都大学が戦時中の京都学派に対して否定的であることを知りませんでした。それどころか、どこの学部に進学しようが、京都学派の気風に触れることができると思い込んでいました。とにかく京都大学へ行けば何とかなると考えて、入試科目ごとの配点が自分にとって最も有利に働く経済学部を選んで入学したのですが、これは失敗でした。人間の経済活動を分析するだけで、「生命尊重以上の価値」とは無縁の学部でしたから。

そこで、総合人間学部に転学部し、自らの思いの丈を記した「国家としての『日本』―その危機と打開への処方箋」という一文を《読売論壇新人賞》に投稿しました。この論文が優秀賞に選ばれたことで研究・執筆活動を主軸にする決意を固め、それから紆余曲折はありましたものの今日に至るわけです。

司会のくせに、些か長く語り過ぎましたが、「『昭和』の遺産」に関する昔話として聞いて頂ければと存じます。

(つづく)

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