陸羯南の現代的意義 ― 小野耕資氏が東都で講演〔11月8日〕

11月8日午後、文京シビックセンターにて千田会主催の講演が開催され、小野耕資氏(里見日本文化学研究所研究員)が、「国際社会は愛国心の競争である ― 明治時代の先人に学ぶ日本の使命」と題して講演した。

陸羯南をテーマとして大学院の修士論文を執筆した小野氏は、この度、『月刊日本』における連載をもとにして『筆一本で権力と戦い続けた男・陸羯南』を上梓したばかりである。

陸羯南は安政4年(1857)に弘前藩士の子として生まれた。弘前藩は戊辰戦争において薩長主導の「官軍」に対して「賊軍」とされたが、羯南もまた、東奥義塾や司法省法学校で薩長閥の校長と争い、退学処分を受けた。

明治22年(1889)に新聞『日本』を創刊。政府の欧化主義政策(鹿鳴館外交)を批判し、国粋主義を主張した。また、俳人である正岡子規を支援したことでも知られる。羯南は新聞を「①機関新聞(政党の機関紙)、②営利新聞(金儲けの新聞)、③独立新聞」と分類した上で、『日本』を「独立新聞」であると位置づけ、硬派な新聞で俗っぽい人間になんか売らなくていい、新聞記者は浪人だ、と言っていたという。

『日本』は様々な社会問題に対して筆鋒を振るったが、最初に取り上げたのは「条約改正問題」であった。当時、外相の地位にあった井上馨(その後、大隈重信)は、「外国人判事の登用・裁判所内の言語を英語等にする」という売国的な方針が進められていたが、小村寿太郎のリークによって『日本』が交渉内容をスクープする。これにより、『日本』は発刊停止処分になったが、政府批判を継続する。この条約改正交渉が、玄洋社の来島恒喜による大隈重信外相暗殺未遂事件により中止に追い込まれたことは広く知られている。

また、足尾銅山鉱毒問題について、問題を軽視する福澤諭吉の『時事新報』と対照的に、『日本』は田中正造による告発を好意的に報じた。さらに、羯南は特派員として櫻田文吾を派遣し、足尾銅山の収益が周辺の農業や漁業の収益よりはるかに多かったとしても、「人道」は「金」よりも重いとして国家的社会主義を主張する。その他、『日本』に貧困ルポや沖縄における人頭税に関する論説が掲載するなど、羯南は「人道」を一貫して重視していた。

もう一つ特筆すべきは、その「アジア主義外交論」である。「国の元気を発揚」し、「それぞれの国がそれぞれの文化を発展させることで世界文明は進歩する」という羯南の主張は、帝国主義やグローバリズムとは一線を画すものである。羯南は、明治26年(1893)に刊行した『原政及国際論』において、国際関係を「①狼呑(領土を取られること)、②蚕食(属国化)、③対峙(対等な関係)」と分類する。その上で、昨今の国際関係は、「狼呑」から「蚕食」へと変わってきており、「蚕食」にあたっては、「心理的蚕食(憧れさせる)→財利的蚕食(経済的依存)→生理的蚕食(同化や同調)」という経過を辿ると指摘する。これは、現代の日米関係にも通じる分析であろう。その上で、他国による「狼呑」や「蚕食」を防ぎ、他国と「対峙」するためには、「国命(=国の使命)を自覚する」ことが重要だと主張していた。

金より人道を重視していた羯南であったが、晩年は資金繰りに苦しみ、明治39年(1906)には『日本』を伊藤欽亮に売却する。その翌年、羯南は逝去した。

こうした羯南の生涯を振り返った上で、「愛国とは政権を擁護することか」と聴衆に問い掛けた小野氏は、資本主義VS共産主義という対立からグローバリズム・新自由主義VSナショナリズムの対立へと世界は変わったのであり、そうした中で「日本人一人ひとりがその持てる力を日本のために発揮できる社会」を実現するためにも経済格差の解消は急務であると結んだ。〔五十嵐千秋〕

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