オウム真理教が問い掛けるものーー「個人」の死を超えるものとしての「国体」

去る7月、麻原彰晃こと松本智津夫らオウム真理教の幹部に対する死刑が2回に分けて執行された。

筆者がオウム真理教の存在を知ったのは、平成2年だったか中学生時代のことだ。友人が通学途中に受け取った宣伝冊子を校内で廻し読みした。その内容は殆ど記憶にないが、美化されて実際とは似ても似つかぬ麻原の顔は覚えている。

美化された麻原彰晃

宗教に関心がなかったのではない。当時からバブル経済に象徴される刹那主義的な大衆消費社会に違和感を抱き、「生を超える価値」を求めていたのだから、宗教に関心を持たぬわけがないのである。

私がオウムに惹かれなかった理由

だが、オウム真理教には全く心惹かれなかつた。その理由はいくつかある。

第1に、ヨーガを通じた心身開発という技法に興味が持てなかった。

第2に、幹部たちは「原始仏教」を標榜して片仮名の祝福名(ホーリーネーム)を名乗っていたが、両親と共に分からぬながらも法華経を読誦することによって培われてきた「仏教」との乖離を感じた。

第3に、これが最も大きな理由だが、その教義に「日本」が感じられなかった。

それから数年、平成7年3月に地下鉄サリン事件が起こる。折しも、京都大学への進学が決まっていた私は父と東北地方を旅行中であり、父が普段通りに出勤していたら巻き込まれた可能性があった。

地下鉄サリン事件

この同時多発テロがオウム真理教の仕業と判明し、5月に山梨県西八代郡上九一色村の教団施設に強制捜査が入り、麻原が逮捕された。一人暮らしをはじめたばかりのマンションで、生中継を見た記憶がある。

けれども、これでオウム真理教が壊滅したわけではない。キャンパス内では様々なサークルが勧誘活動をしていたが、ヨーガのサークルを標榜したオウム真理教の残党がオルグをしているという噂を聞いた。

その後、能楽部寳生会に入部する。その部室は畳敷きであったが、その一枚が「尊師畳」と呼ばれていた。先輩が語るところによれば、かつて大学構内で麻原の講演が行われた際、彼が着座するためとして学生信者が借りていったものという。

大学で「生を超える価値」を学ぶつもりだった私は、刹那主義が横溢する大学の現実に絶望し、講義にも行かず昼から酒を飲み、興味のおもむくままに文学書や思想書を読んだ。そして、中学・高校の同級生たちと発行していた回覧誌に、こんな一文を書いた。

高度成長後に生を受けた我らの世代の眼前には、何もなかった。すでに世界は出来上がっており、その形成に参加することはできない。〔中略〕
ここで、我らの世代は二つに分かれたのだ。〔中略〕ゲームに自分も入り、何も考えずに生きていこうとする者達と、それに我慢がならず、そんな世界を破壊してやろうとする者達とに…。前者は、実際にそのようにできた者とそうでない者とに、後者は、偽りの希望にすがってしまった者とそうでない者とに。一番悲惨であったのは、偽りの希  望にすがってしまった者達であろう。その代表例は、オウム真理教の信者となった人々である。〔中略〕
多分、彼らは彼らなりに、今の社会に異議があるのだろう。個人の生命を超えた何ものかがあると信じているのであろう。それは、確かにそうだと思う。「個人」に還元された悲しみを刹那的な享楽で購おうとしている人々より、よほど誠実な態度と云えるであろう。しかし、それが、何故にオウム真理教の教義でなければいけなかったのか。私たちが生まれ、育まれてきたこの国には、素晴らしい文化的伝統が存在する。「死」という、個体としての人間の存在を揺るがす問題に対する回答もそこにある。私たちは、そこに立ち返ればよいのである。

「死」からは逃れられない

文中の「『個人』に還元された悲しみ」という表現は不適切である。これでは、「個人」が根源的存在ということになってしまい、前後の文脈と合わない。ここは、「根源的存在から『個人』に分断された悲しみ」とすべきだったろう。

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉に端を発し、現代日本社会において主流を占める近代主義的思惟は、「個人」を根源的存在と見なし、その主体たる「個人」によってなされる認識作用を「主観」、その客体すなわち認識対象となり、諸「個人」から独立して存在する外界(自然や社会)を「客観」と呼ぶ。

そして、そのような「客観」を理性に基づいて精確に認識することができれば、「個人」が外界から受ける害悪を避けられるはずと考える。

だが、理性により世界の全てが解き明かせるわけがない。そのうち最大の問題が「死」という現象である。「個人」を根源的存在と見なす近代主義的思惟において、その消滅を意味する「死」という現象ほど恐ろしいものはない。

その上、理性により解き明かせぬのであれば、できることなら関わらずに済ませたい。

日本人は大東亜戦争によって夥しい「死」と向き合ったが、その後は平成7年1月の阪神大震災に至るまで、自己や近親者の死を除いて「死」から縁遠いところに居た。そして、先の一文にある通り、「ゲームに自分も入り、何も考えずに生きていこうと」したのである。

とは云え、いくら刹那的な享楽で死の問題から眼を背けても、いつの日か人は死ぬ。その事実を、麻原は「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」と直截的に指摘し、その言葉に感応した者が入信したのだ。

オウム真理教の幹部に少なからぬエリート予備軍が居ると事件の前から驚きをもって語られていたけれども、こんな当たり前のことを断言する者が居なかったということの方が遥かに問題であろう。

こうした情況は、先の文章が書かれてから20年あまりが過ぎた今日も変わらない。確かに、バブル景気崩壊後の「失われた十年」を経て、グローバルな経済活動に追随する形で経済構造は大きく転換した。

また、脳機能の拡張を目指すIT産業が牽引するグローバルな経済活動は、社会構造の転換をもたらした。IT産業の発達に伴い、私たちは居ながらにしてインターネットを介して外界と繋がり、そこに新たな商機が生まれている。

アマゾンなどのEコマースやフェイスブックなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)は社会に定着した。

インターネットを通じて自らの得たいモノやコトだけを得ることが可能となった結果、生身の人間と関わりを持つことで生じる不快感を避けようとする者さえ登場したが、結局のところ、「出来上がった世界」の中で、末梢的な欲望に振り回されているだけだ。

しかし、生命科学の進歩により寿命が延びたところで、生命には限りがある。その意味において麻原の指摘は正しく、そこに今でも新たな信者が入信する理由がある。とするならば、私たちも「国体」との関わりにおいて「死」を語らねばならない。

「国体」の一員として「死」を思う

オウム真理教ではヨーガを通じた心身開発という技法を重視した。このことは、幹部の多くが理系出身者であったことと関係しているように思われてならない。

死を巡る問題を解決するために、彼らは自らの身体を道具としてヨーガを実践し、そこで得られるものを「客観」として把握しようとしたのではないか。

とは云え、自らの肉体を道具とするヨーガは容易に「個人」を根源的存在と見なす近代主義的思惟と結びつく。だからこそ、トレーニングの一環としてヨーガを取り入れているスポーツ選手は少なくないのだが、ヨーガだけでは死を巡る問題の完全な解決には至らぬのではないか。

現に、坂本弁護士一家殺人事件・松本サリン事件・地下鉄サリン事件と、麻原および教団は自分たちを防衛すべく平然と他者を「死」に至らしめた。

一口に「死」と云っても、様々な側面がある。

云うまでもなく、他者に代わってもらうことが出来ないという点において、「死」は自己のものだ。

しかし、それだけが「死」ではない。父母や配偶者あるいは子といった近親者の「死」を看取り、供養するという営みの中で、私たちは死者との繋がりを再確認し、来るべき自らの「死」を思うのである。

それ以外の「死」といえども無関係ではない。例えば、いたいけな幼子が親に虐待された挙句に死んだニュースを聞いて世の不条理に憤る時、私たちは社会の一員として「死」を思っているのである。

ここでいう社会とは、同時代的な共同体に限らない。歴史を貫いて存在する民族共同体、即ち「国体」もまた社会である(里見岸雄博士は、前者を「時代社会」、後者を「基本社会」と呼んでいる)。

そうした「国体」の一員として「死」を思う場が、靖国神社や各地の護国神社である。筆者のように身内に戦歿者がいない者にとって、英霊は見も知らぬ他人だ。しかし、同じ日本国体を構成する一員として、

海行かば
水漬く屍
山行かば
草生す屍
大君の辺にこそ死なめ
かへり見はせじ

という『海ゆかば』の歌詞とともにその「死」を思う。

「大君の辺にこそ死なめ」とは「天皇の傍で死ぬつもりだ」という意味であり、かかる覚悟で一命を捧げた方々の「死」を私たち生者が思う時、思う生者と思われた死者は、「国体」を通じて一体となり、「個人」という存在を超えるのだ。

かく「死」を通じて「国体」を意識する時、近代主義的思惟に由来する「根源的存在から『個人』に分断された悲しみ」は克服されるに違いない。

金子宗德(かねこ・むねのり)里見日本文化学研究所所長/亜細亜大学非常勤講師

この記事は、月刊「国体文化」平成30年9月号に掲載されました。

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