10月24日午後、第4回浦安日本塾が開講された。今回は、村上一郎『草莽論』を読んだ。旧海軍軍人である村上は三島由紀夫とも親しかったことで知られる。全員で「第一の章 草莽とはなにか」を輪読した上で、それぞれの感想を語り合った。
村上によれば、「草莽」は宮仕えしていないという点で体制から一線を画した存在ではあるが、大衆とも馴染めない孤独な存在である。別の言い方をすれば、「草莽」は政府ではなく、社稷の為に生きる存在である。社稷とは土地の神と穀物の神を意味する語で、そこから発展して人々の生活を意味するようになった。明治四年に祭政一致が放棄され、資本主義と手を組んだ政府が肥大化し、社稷に勝利していく歴史を辿ったが、そこに問題はなかったかと、村上は権藤成卿に依拠しつつ主張する。
村上によれば、草莽が重んじるのは「一君万民の精神」・「道(ロゴス)」であり、権力機構に接近することは堕落である。その意味において、村上は(あるいは権藤も)国家と社稷の対比で社稷に重きを置いたが、社稷を守れるのもまた国家だけである。国家が道徳を重んじることで、初めて国家(宗廟)と社稷が一体となるのであり、そうした国家を目指さなくてはならないのではないか、という結論に落ち着いた。
その他、村上が何の説明もなく使用している「宮番」とは長州藩の被差別階級のことで、幕末の長州においては、そうした被差別階級の解放が進み身分制度が解体されつつあったが、そうした流れと吉田松陰の「草莽崛起」という主張には関連があるのではないか、といった指摘。あるいは、村上が肯定する稲や粟の魂魄(corn spirit)は西洋一神教社会ではバカにされる対象でしかなく、そうした彼我の相違は興味深いという意見。また、村上が北一輝を是認し、大川周明に批判的であったことと「草莽論」は如何に関わるのかという問題提起、戦争で悲惨な目に遭った人ほど無政府的傾向に陥り易いのではないかいった感想など、様々な論点が示される有意義な会合であった。(愚泥)