雨中に先人を偲ぶ ― 内田良平の命日に合わせ多磨霊園内の墓所を巡拝〔7月26日〕

7月26日、崎門学研究会・アジア研究会の合同企画として多摩霊園を訪問。本件は、もともと内田良平の命日に墓参することを企画したもので、それに合わせて同じく多磨霊園に眠る先人を訪ねることとしたものである。当日は生憎の雨模様だったが、上杉愼吉・高畠素之、内田良平、葛生能久、中野正剛、徳富蘇峰、五百木良三、三島由紀夫(平岡公威)、倉田百三、岡本太郎、山下奉文、ラス・ビハリ・ボースの墓所を巡拝し、先人に思いを致した。

各先人の事績を紹介しつつ我が国の近代史を振り返りたい。

我が国の国体派は、「一君万民」と「アジア解放」を自らの信念とした。前者は反藩閥・反軍閥・反財閥の立場であり、幕府的権力を認めず、経済的弱者を救済しようとした。これを世界規模に拡大したのが後者であり、西洋列強による独善的殖民地支配を否定し、被支配者たるアジア人の独立を支援した。こうした「一君万民」と「アジア解放」の志向は、玄洋社系・東亜同文書院系を始め、様々な思想的・人的系譜が渾然一体となりつつ世代を超えて受け継がれていく。

頭山満の盟友で「玄洋社三傑」の一人・平岡浩太郎の甥にたる内田良平は、「アジア解放」を象徴する人物と云えよう。明治三十四年に黒龍会を結成し、アジア解放運動に取り組んだ。この黒龍会の結成メンバーの一人が、葛生能久であった。この黒龍会が支援したアジア解放運動の一つに、ラス・ビハリ・ボースによるインド独立運動である。インド独立運動に挺身していたボースは、イギリス官憲の指名手配から逃れるべく日本に亡命していた。なお、黒龍会はフィリピンのリカルテ将軍なども支援している。

玄洋社・黒龍会と並んで、戦前日本のアジア解放運動の策源地であったのが東亜同文書院だ。東亜同文書院は、東亜同文会が上海に設立した日本人の教育機関である。東亜同文会は明治三十一年に近衛篤麿を会長として設立された団体で、初代の幹事長は新聞『日本』の創刊者である陸羯南であった。この『日本』社員であり、対露同志会などにおける篤麿の活動をサポートしたのが五百木良三(飄亭)である。飄亭という俳号は、俳句の師・正岡子規によつて名付けられたもの。また、陸羯南の盟友・三宅雪嶺の娘婿が、中野正剛である。中野正剛は早稲田大学出身の政治家で、東方会を主宰した。東條内閣を激しく批判し、憲兵隊の弾圧により追い詰められて自決した。

大東亜戦争に際して、東亜解放を旗印にマレー作戦を指揮したのが陸軍大将の山下奉文である。マレーを制圧した後にフィリピン進攻を実行した山下は、マッカーサーを一時撤退させるにまで至った。この時、先述のリカルテ将軍の率いる独立軍が日本軍と共に戦った。大東亜戦争敗戦後、山下大将はBC級戦犯として処刑されたけれども、その裁判において、リカルテ将軍の孫・ビスが証言台に立ち、山下を弁護したのである。

続いて、「一君万民」の思想について。

上杉愼吉は憲法学者として天皇主権説を唱えたことで知られるが、晩年は経済的弱者の救済にも関心を持ち、「貧乏でなければ本当の愛国はできない」と主張した。この上杉と共に「尊皇社会主義」ともいうべき主張を展開した人物が、高畠素之である。高畠は堺利彦・山川均らと社会主義の運動を行っていたけれども、国家が積極的に経済弱者を救済するべきという考えを持っていた高畠は、次第に堺・山川らと距離を置くようになり、上杉と経綸学盟を結成するなど国家主義陣営に与した。

高畠の弟子に津久井龍雄が居る。この津久井が赤松克麿らと共に結成した国民協会に参加したのが、倉田百三であった。倉田は一高在学中に人生の無常を感じ、キリスト教や一燈園などに活動に加わった後、親鸞を主人公とする『出家とその弟子』で文壇の寵児となる。その後も神経衰弱に苦しんだが、森田療法や参禅などを経て内面の不安を克服し、後年は日本主義に目覚めて津久井らと行動を共にしていたのである。

大東亜戦争敗戦後、日本をアメリカの衛星国として作り替えようとしたGHQは、都合の悪い人物を戦犯として社会から抹殺しようとした。それを忌々しい所業だと考えていたのは、自身もA級戦犯に指名された徳富蘇峰であった。敗戦という現実を受け止めた蘇峰は自ら「百敗院泡沫頑蘇居士」と戒名を付ける一方で、アメリカに媚びる日本人に継承を鳴らし続けた。その墓には、「五百年の後を待つ」と、日本が敗戦から必ず復興するというメッセージが刻まれている。

同じく戦後日本の対米従属の姿勢に憤りを感じたのが文学者の三島由紀夫だ。三島は「日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである」と言い、昭和四十五年、自身が結成した盾の会の面々と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地にて決起。檄を飛ばした後割腹自決した。

三島が決起した昭和四十五年は、ちょうど大阪万博の年でもあった。高度経済成長を背景とする万博は、「人類の進歩と調和」をテーマとして掲げ、未来的な幾何学デザインを前面に打ち出す。これに対して、岡本太郎は、縄文土器の古代的な曲線美にインスピレーションを受けた「太陽の塔」を設計し、そうした軽薄な方針に決然と異を唱えた。(愚泥)

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