「国体」と基督教 ― 内村鑑三を巡つて

里見日本文化学研究所主任研究員 金子宗徳

 日本を愛するといふこと

私は青年時代に於て、常に私の外国の友人に告げて曰うた、私に愛する二個のJがある、其一はイエス(Jesus)であつて、その他の者は日本(Japan)であると。イエスと日本とを比べてみて、私は孰をより多く愛するか、私には解らない。其内の一を欠けば、私には生きてゐる甲斐がなくなる。私の一生は、二者に仕へんとの熱心に励まされて今日に至つた者である。私は何ゆゑに然るかを知らない。日本は決して、イエスが私を愛してくれたやうに愛してくれなかつた。それに係はらず、私は今なほ日本を愛する。止むに止まれぬ愛とはこの愛であらう。

これは、内村鑑三が自ら主宰する『聖書研究』(大正十五年一月号)に執筆した「私の愛国心について」といふ文章の一節である。僅か二百五十字弱に過ぎぬ引用部分の中で、動詞表現を含めると七回も「愛」といふ語が用ゐられ、鑑三の強い思ひが伝はつてくる。

「愛」は、後ろを顧みて立つ人の形を表す「 」と「心」とが組み合はされた会意文字で、「顧みて憂ふ」様子を表す。なほ、意味的には和語の「かなし」にあたる。

江戸時代までの日本人は、「愛」を如何なるものとして考へてゐたのか。「愛」に関する儒教と仏教における教説を整理しておきたい。

儒教は私心を抑へて他者を思ひ遣るといふ「仁愛」の理念を説く。論者により力点の置き方は異なるけれども、その主たる関心は「礼」と呼ばれる忠孝に基づく社会規範の維持であつた。

また、仏教においては、サンスクリット語の〈priya〉の訳語として「愛」が用ゐられる。「愛」に関する議論は多岐にわたるけれども、ごく簡単に云へば、自己および他者に対する執着としての「愛」は煩悩であり、宗教的真理に基づく「愛」とも云ふべき「慈悲」の心を身に付けることで克服すべきとされた。

明治以降、西洋思想の流入に伴ひ、「愛」に新しい考へ方が持ち込まれた。

第一に、西洋哲学の根底をなす古代ギリシャの考へ方である。「哲学」は〈philosophy〉の訳語だが、もともとの語源である古代ギリシャ語は「知を愛する」といふ意味だ。古代ギリシャにおいては、性愛から発展して対象との合一を求める「エロス」、さらには理性に基づいて価値観を共有しようとする「フィリア」の思想が発達した。

第二に、基督教の考へ方である。「神の子」を自任してユダヤ教の改革運動を展開したイエスは、ユダヤ教守旧派とローマ帝国により無実の罪を着せられた。しかし、イエスは彼らを決して憎むことなく、十字架上で刑死する。「汝の敵を愛せよ」といふ『新約聖書』の一節は広く知られてゐるが、これは神=造物主の愛すなはち「アガペー」が全人類に向けられてゐる以上、被造者たる人間はイエスのやうに敵であつても他者を愛さねばならぬといふ当為としての「愛」だ。

当然のことながら、鑑三の説く「愛」はキリスト教的な意味における「愛」、当為としての「愛」である。鑑三は、先に触れた一節に続けて云ふ。

私が日本を愛する愛は普通此国に行はるゝ国を愛する愛ではない。私の愛国心は軍国主義をもつて現はれない。所謂国利民福は多くの場合に於て私の愛国の心に訴へない。日本を世界第一の国と成さんとするのが私の祈願であるが、然し乍ら武力を以て世界を統御し金力を以て之を支配せんと欲するが如き祈願は私の心に起らない。私は日本を正義に於て世界第一の国と成さんと欲する。「義は国を高くし、罪は民を辱かしむ」とあるが如くに、私は日本が義を以て起ち、義を以て世界を率ゐん事を欲する。……日本の為に日本を愛するに非ずして義の為に日本を愛するのであると言ふならば多くの日本人は怒り或は笑ふであらう。然し乍ら此愛国心のみが永久に国を益し世界を役する愛国心であると信ずる。

鑑三にとつての「愛国心」は自らが属してゐる国家に対する盲目的愛情ではない。神に対する信仰といふ普遍的な「義」に照らして愧づることのなき愛情である。

………
(続く見出しのみ公開)
基督教との出会ひ
いはゆる「不敬事件」
井上哲次郎による基督教批判
鑑三の反駁
超越的存在と国家

続きは月刊『国体文化』7月号をご覧ください。

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