「国体」と京都学派 ― 西谷啓治、西田幾多郎を巡つて

里見日本文化学研究所所長 金子宗徳

 近代の超克

大東亜戦争の開戦から半年あまり経つた昭和十七(一九四二)年七月、雑誌「文学界」により「近代の超克」と題する座談会が開かれ、その模様は同誌十月号に掲載された。二日間に亙つて開かれた座談会には、以下の十三名が参加してゐる。

西谷啓治…宗教哲学者・京都帝大助教授
諸井三郎…作曲家・東洋音楽学校講師
鈴木成高…歴史哲学者・京大助教授
菊池正士…原子物理学者・大阪帝大教授
下村寅太郎…科学史家・東京文理科大教授
吉満義彦…カトリック神学者・上智大学教授
小林秀雄…文芸評論家・「文学界」同人
亀井勝一郎…文芸評論家・「文学界」同人
林房雄…作家・「文学界」同人
三好達治…詩人・「文学界」同人
津村秀夫…映画評論家・朝日新聞記者
中村光夫…文芸評論家・「文学界」同人
河上徹太郎…文芸評論家・「文学界」同人

「文学界」同人に加へて様々な分野の知識人を集めた「綜合文化会議」と称するに相応しい陣容だ。
参加者の一人である西谷啓治は事前に提出した論文「『近代の超克』私論」の中で、「近代」の本質的問題を剔抉する。

一般に近代的なものといはれるものは欧羅巴的なるものである。近代は政治的・経済的にも文化的にも、欧羅巴的世界が世界全体へ自ら拡大した「近世」の末期に位する。日本に於ける近代的なるものも、明治維新以後に移入された欧羅巴的なるものに基く。然るに、欧羅巴文化の移入に於ける顕著な特色は、文化の諸部門が相互の連絡なしに離れ離れに輸入されたことである。〔中略〕日本自身が連関あるものを切れ切れに輸入する仕方をとつたのであらうか。〔中略〕原因は寧ろ一層根本的なところにあると思はれる。即ち輸入された西洋文化が、既に西洋自身に於て連関性を喪失してゐたからである。従つて、単に専門的領域への分化といふだけではなく、其等の分化したものを統一する中心がなく、文化が全体としての統一性を失つてゐたのである。

かゝる分裂は、「近世」の初めから伏在してゐたと西谷は云ふ。すなはち、「近世」を「近世」たらしめた(教会を排して神と個人とを直結せんとする)宗教改革、(世界の全事象を数学的法則により記述せんとする)自然科学、(人間の尊厳を絶対視する)ルネサンスにより、神・世界・人間の統一点であつた中世キリスト教神学が否定されてしまつた。その上、この三者は互ひに相容れない。
加へて、「所謂自由主義を中心とした政治上の問題」が絡んでくる。

もし自由主義の根本を、世界のうちに於ける個人の独立への権利の主張とすれば、それは個人主義と世界主義とが一つになつてゐるやうな立場といへる。これを繞つて、純粋な徹底した個人主義、同様に徹底した世界主義乃至は社会主義、更に其等に対立する徹底的な国家主義等が生じ、そこに個人と国家と世界との関係について、深い混乱が生じて来た〔後略〕

明治維新以後、ヨーロッパ文化が浸潤した結果、日本でも統一的世界観を形成することが困難となりつゝある。そのやうな時代に生きる日本人は、近代を超克し、世界観形成の基盤を再構築しなければならぬ。
では、どうすれば良いのか。西谷は説く。

〔前略〕問題の根本は、人間性の否定的超越を要請するやうな絶対的なるものの把捉といふ宗教の立場が、如何にして人間性の全き肯定に立つ文化・歴史・倫理などの立場と人間性に無記である見方に立脚する科学の立場とに自由活動のところを与へ、其等の自由活動を統一し得るか、かゝることを可能ならしめる宗教性は如何なるものでなければならぬかといふこと(なぜなら、宗教の立場が全体の基礎をなすべきことは現在でも変らないと思ふから)、及びその宗教性に基く倫理の再建設にある。然もその倫理は、近世を通して複雑な衝突を続け不透明を醸し出した世界と国家と個人とを一つに貫くものでなければならないであらう。

 「主体的無」の思想

さらに続けて曰はく。

 先づ宗教性は、人間性とその文化はもとより、倫理に対してすら絶対に超越的なところを開くものでなければならぬ。でなければ宗教としての本来性をもたず、人間の宗教的要求を徹底的に満すことは出来ない。それは例へば死を真に克服する道を与へ得ない。併しまた、この人間性の絶対的否定は同時にその否定を通しての人間性肯定への路を含むものでなければならぬ。〔中略〕更に、現在求められるべき宗教性は科学の立場からも絶対的に超越するものであると同時に、科学への明らかな背離であるが如きドグマを含むものであつてはならないであらう。

いつたい、かくの如き「宗教性」は何を根拠とすべきか。西谷は「吾々の主体性のうちに徹するといふ方向に求められなければならない」として、「主体的無」の境地を打ち出す。

 物とか心とかはなほ有である。通常「自己」といはれるものは、なほ「有」として恰も物の如く実体的なものと考へられた自己である。然るに、真の主体性はかゝる物や心の彼方のもの、其等の否定即ちいはゆる「身心脱落」に現れるものであり、意識的自己の否定、いはゆる小我を滅した「無我」、「無心」として現れるものである。かゝるところに真の「心」真の「魂」、即ち主体に於ける真の主体性が現はれる。これは身体とその属する自然的の世界、心とその文化の世界に対する絶対の否定、絶対の超越を含む。そこにまた、世界からの全き自由、宗教的な自由がある。吾々は吾々が現にあるといふ時、主体としてのその実存の根柢に恒にかゝる主体的無の立場とその自由を蔵してゐるのである。たゞ吾々はそれを自覚しないだけである。

 道徳的エネルギー
その上で、さうした「主体的無」の境地を如何にして自覚し、現実社会と結び付けるか。この実践倫理的課題に対し、戦時下といふ例外情況を踏まへ、西谷は次のやうな指針を示す。

 現実的には吾々は一個の国民として生活してゐる。然も国家は個人の恣意的な自由を抑圧せねばならぬ。これは国家の存立にとつて不可避の要請である。そこから西洋近世に於ける、個人と国家との間の深い困難が生じたのであつた。〔中略〕然も現在では国家はこの要請に於て徹底的であることを迫られてゐる。即ち滅私奉公といふことが強調されてゐる所以である。〔中略〕滅私とは根本的には、恣意の小我、利己主義の我の滅却を意味する。

そして、「国家は何故私を滅した職域奉公を国民に要求せねばならぬのであるか」と自問し、次のやうに論ずる。

 それは言ふ迄もなく、国家としての内的統一を出来るだけ強化するためである。そして統一が必要なのは、国家が、一個の全体としてその総力を集中し、強度のエネルギーを以て行動し得んがためである。然もその総力の集中は根本に於て、国民の各々がその私を滅して全体としての国家へ帰一するといふ深い倫理性なしには起り得ない。国家総力の集中から生ずる強度のエネルギーも、根本に於いては倫理的な精神の力である。即ち各人がその職域にあつて私を滅せんと努めることから生れる国民の精神力、職域に於ける錬達に献身的に努力することから生れる国民の倫理的な精神力の集中のみが、かのエネルギーを与へる。然るに国民の全体をその各自の職域生活に於て内から統一する中心点は、国家存在そのものの核心である。かのエネルギーは、国家存在の此の核心から発する。それは国家生命そのものの発露である。その意味でかのエネルギーは道徳的エネルギーと呼ばれ得る。国家は国民の各自に滅私、献身の努力を要求し、それによって国民を倫理的ならしめ、逆にかゝる国民の共同体として初めてそれ自身倫理的であり得る。道徳的エネルギーは、国民と国家との間のかゝる生きた連関のうちから生ずる。即ち真に国民各自の内面から湧き出たものとして、従つてまた、国民各自とその総力が内面から国家へ統一されたものとして、道徳的エネルギーといはれるのである。国家存在の倫理的本質は道徳的精力である。

こゝで注目すべきは「道徳的エネルギー」といふ語だ。この語は、ドイツの歴史家・ランケ〔一七九五~一八八六〕により提唱された。理性を絶対化し、過去を劣つた時代として否定的に捉へる啓蒙主義的歴史叙述に対して、それぞれの人間や社会が如何なる個性を有し、如何に発展してきたかを重視するランケは、厳密な史料批判に基いてヨーロッパ各国の歴史のみならず「世界史(実質的にはヨーロッパ史)」の執筆に精力を傾け、「近代歴史学の父」とも呼ばれる。

……… ………
続きは月刊『国体文化』平成27年7月号をご覧ください。

(続く見出しのみ公開・全8頁)
 日本の世界史的使命
矛盾的自己同一と皇室

(「国体文化」平成27年7月号2~9頁所収)

本稿は二月二十八日に開催された〈国体学講座・近代日本の政治思想――その国体論を中心に⑨〉の講義録に加筆したものです

関連記事

  1. 日本国憲法と「国体」 ― 佐々木惣一と和辻哲郎の論争 

  2. 現代にも続く「国体」とは、日本人がまとまる秘訣のことだった!

  3. 「国体」とヒューマニズム ― 倉田百三を巡つて

  4. 「国体」と啓蒙思想 ― 福澤諭吉を巡って

  5. 「国体」の語をもてあそぶな!白井聡氏の『国体論 菊と星条旗』を斬る(後編)

  6. 日本は世界を救はなければならぬ

  7. 「国体」と昭和維新運動 ― 北一輝を巡つて

  8. 八紘一宇の世界を建てよう

  9. 天智天皇と戦後復興~白村江敗戦から近江遷都へ~

関連サイト





新着記事

PAGE TOP