「国体」とヒューマニズム ― 倉田百三を巡つて

里見日本文化学研究所主任研究員 金子宗徳

 明治の終焉と時代閉塞
夏目漱石の長編小説『こゝろ』は、主人公の「私」が鎌倉の海岸で「先生」と知り合ふ場面から始まる。「先生」には何処となく翳が見られ、秘密を抱へてゐるやうであつた。父の臨終が迫り、郷里に帰省中であつた「私」の許に「先生」から長文の手紙が届く。それは自らの生ひ立ちを赤裸々に語り、親友を自殺に追ひ込んだ過去を懺悔する遺書であつた。その中で、「先生」は明治天皇の崩御に触れる。

……夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残つてゐるのは必竟時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。……
それから約一ヶ月程経ちました。御大喪の夜私はいつもの通り書斎に坐つて、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去つた報知の如く聞こえました。

この後、乃木大将の殉死に触発されて「先生」は自殺を決意するといふ話の流れになるが、注目すべきは「明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つた」、「明治が永久に去つた」といふ「明治の終焉」を示す表現だ。

漱石は、明治の日本に対して礼賛一方だつたわけではない。明治四十二(一九〇九)年――大逆事件の前年――に書かれた『それから』を見ると、こんな一節がある。

……日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。……さうして、無理にも一等国の仲間入りをしようとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行を削つて、一等国丈の間口を張つちまつた。……其影響はみんな我々個人の上に反射してゐるから見給へ。斯う西洋の圧迫を受けてゐる国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神経衰弱になつちまふ。……日本国中何所を見渡したつて、輝いてゐる断面は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。其間に立つて僕一人が、何と云つたつて、何を為たつて、仕様がないさ。……今の様なら僕は寧ろ自分丈になつてゐる。さうして、……有りの儘の世界を有りの儘で受け取つて、その中僕に尤も適したものに接触を保つて満足する。進んで外の人を、此方の考へ通りにするなんて、到底出来た話ぢやありやしないもの。

これは主人公・長井代助の科白であるが、日本は西洋の圧迫を受け、一等国たらねばならぬと無理を重ねており、そこで神経衰弱になるくらゐなら社会との関係を断つたはうが良いといふシニカルな見方である。日露戦争に辛勝して欧米列強と肩を並べたものゝ、戦費を賄ふために約八億円を外債により調達し、戦後も財政難に対応すべく明治四十一(一九〇八)年からの三年間で約七億円の外債を発行するなど無理を重ねてゐた。その上、「一等国」になつたは良いが、それは国家目標の喪失といふことでもあり、虚無感を抱く国民もあつた。

漱石より約二十歳下で、二〇代半ばになるかならぬかといふ石川啄木は、もつと辛辣だ。

……「国家は強大でなければならぬ。我々は夫を阻害すべき何等の理由も有つてゐない。但し我々だけはそれにお手伝するのは御免だ!」これ実に今日比較的教養ある殆ど総ての青年が国家と他人たる境遇に於て有ち得る愛国心の全体ではないか。さうして此結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、更に一層明晰になつてゐる。曰く、「国家は帝国主義で日に増し強大になつて行く。誠に結構な事だ。正義だの、人道だのといふ事にはお構ひなしに一生懸命儲けなければならぬ。国の為なんて考へる暇があるものか!」

我々青年を囲繞する空気は、今や少しも流動しなくなつた。強権の勢力は普く国内に行き亘つてゐる。現代社会組織は其隅々まで発達してゐる。――さうして其発達が最早完成に近い程度まで進んでゐる事は、其制度の有する欠陥の日一日明白になつてゐることによつて知ることが出来る。……斯くの如き時代閉塞の現状に於て、我々の中最も急進的な人達が、如何なる方面に其「自己」を主張してゐるかは既に読者の知る如くである。実に彼等は、抑へても〳〵抑へきれぬ自己其者の圧迫に堪へかねて、彼等の入れられてゐる箱の最も薄い処、若くは空隙(現代社会組織の欠陥)に向つて全く盲目的に突進してゐる。今日の小説や詩や歌の殆どすべてが女郎買、淫売買、乃至野合、姦通の記録であるのは決して偶然ではない。しかも我々の父兄にはこれを攻撃する権利はないのである。何故ならば、すべて此等は国法によつて公認、若しくは半ば公認されてゐる所ではないか。
……今や我々青年は、此自滅の状態から脱出する為に、遂に其「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達してゐるのである。

これらは、大逆事件で幸徳が検挙されて間もない明治四十三(一九一〇)年八月に書かれた「時代閉塞の情況」の一節だ。政治的(公的)自由を認められぬ若者たちは性事的(私的)自由の追及を以て自己を慰めてゐるが、このまゝでは行き詰まりが必ず来るから、さうした現状と真正面から闘はねばならぬと啄木は強く訴へる。

不調和な世界
倉田百三もまた、閉塞する時代情況の中で虚無感を抱へてゐた。明治二十四(一八八一)年二月に広島県比婆郡庄原町(現・庄原市)に生まれた。生家は呉服商を営んでをり、唯一の男児であつた百三は跡取り息子として周囲の寵愛を一身に受け、何ら不自由のない幼年時代を過ごす。三次中学校を首席で卒業した百三は、家業を継がせようとする父を説得して上京し、明治四十三(一九一〇)年九月、旧制第一高等学校文科に進学した。

一高においても、芥川龍之介や菊池寛などの同級生を抑へて首席となるが、このころから百三は存在論的懊悩に囚はれるやうになつた。

私は生きて居る。私はこれ程確かな事実はないと思つた。自己の存在は直ちに内より直感できる。私はこれを疑ふことは出來なかつた。併しながら他人の存在が私にとつていかばかり確実であらうか。……私にとつては他人の存在は影の如く淡きものに過ぎなくなつた。迚も自己存在の確認とは比較にならない力の乏しいものになつてしまつた。  〔「異性の内に自己を見出さんとする心」〕

かうした主観主義から独我論を経て、「極端な利己主義者となつた」百三は、「強者になりたい」と願ひ、法科に転じたばかりでなく、「初めより生の悲痛と不調和とを覚悟し」、強姦や殺戮など、「凡そEgoistの味はひ得べきほどのものを味ひ尽して死にたい」とまで思ひ詰めた。

しかしながら、このやうな戦闘的利己主義によつて、「蔽ふべくもないロマンチシスト」であつた百三の性情を圧殺することはできなかつた。百三は、「私はいかにして他人の存在を肯定することが出来たであらうか。私が自己の存在を肯定するがごとく、確実に、自明に、生き生きとした姿に於いて他人の存在を認識することが出来たであらうか。そして自他の生命の間に通ふ本質的関係あることを認めることが出來たであらうか」と思ひ悩み、「私の生命は全一ではないのだ。分裂してゐるのだ。知識と情意は相背いてる。私の生命には裂罅がある。生々とした割れ目がある」と苦悶する日々を過ごす〔「異性の内に自己を見出さんとする心」〕。

懊悩する倉田を救つたのは、西田幾多郎が明治四十四年一月に刊行した『善の研究』であつた。倉田が、同書を手に取つたのは、明治四十五年の初め頃だとされてゐる。「個人あつて経験あるにあらず、経験あつて個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるといふ考から独我論を脱することが出来」たといふ序文の一節を読んだ百三は、「喜こびでもない悲しみでもない一種の静的な緊張に胸が一ぱいになつて、それから先がどうしても読めなかつた」と振り返る。西田に深く傾倒した百三は、一高の『校友会雑誌』に「生命の認識的努力(西田幾多郎論)」を発表した。

「主客を没したる知情意合一の意識状態」、即ち、思惟以前の「純粋経験」を唯一の実在とする認識論に立ち、「時間的に空間的に区別せられたる」他者への「愛」に関して、「他の人格を認めると云ふことは即ち自己の人格を認めることである。而して各々が相互に人格を認めたる関係は即ち愛であつて、一方より見れば両人格の合一である。愛に於て二つの人格が互に相尊重し相独立しながら而も合一して一人格を形成する」と述べる西田を、百三は「愛の哲学者」と呼んだ。

また、百三は、「世界」の外に超越して存在するものとしてゞはなく、対立・衝突と統一とを兼ね備へた「独立自全なる無限の活動」である「純粋経験」の根柢に内在するものとして「神」を捉へ、かく語る西田に共感する。

………
(続く見出しのみ公開・全10頁)
「生命」と国家

続きは月刊『国体文化』平成26年11月号をご覧ください。

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