「国体」と啓蒙思想 ― 福澤諭吉を巡って

本稿は4月12日に開催された〈第二期国体学講座・近代日本の政治思想 ― その国体論を中心に(1)〉の講義録に加筆したものです

「啓蒙思想家」としての福澤諭吉

一万円札の肖像で馴染み深い福澤諭吉は、豊前中津藩士・百助の次男として、天保五年十二月十二日(一八三五年一月十日)に大阪の同藩蔵屋敷で誕生した。百助は伊藤東涯(古義学派の祖・仁斎の子)の流れを汲む儒者で、「金銭なんぞ取り扱ふよりも読書一偏の学者になつてゐたいといふ考へ」の持ち主だつたにもかゝはらず、「先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間に挟まつてゐる者も同様、何年経つても一寸とも変化といふものがない」当時の社会において、「算盤を執つて金の数を数へなければならぬとか、藩債延期の談判をしなければならぬとかいふ仕事」を強ひられてゐた。百助は、家禄を継ぐ必要のない諭吉を僧侶にしたいと考へてゐたといふ。僧侶ならば門閥に囚はれることなく自らの努力次第で名を成すことができると考へたのかと父の心事を思ひ遣つた諭吉は、「門閥制度は親の敵」と述懐してゐる〔福澤諭吉『福翁自伝』〕。

父の病死に伴つて家族と中津に移り住むも同地の退嬰的な気風に馴染めず、長崎や大阪にて蘭学修行。大阪にあつた緒方洪庵の適塾で頭角を現す。藩命で江戸に蘭学塾を開いたものゝ、横浜の居留地を訪ねた際に蘭学の限界を感じて英学に転向した。その後、三回にわたり渡米する。

その後、啓蒙思想家の草分けとして、蘭学塾から発展した《慶応義塾》において子弟を育成すると共に『西洋事情』・『文明論之概略』・『学問のすゝめ』など多数の書物を執筆。明治六(一八七三)年には森有礼・西周らと《明六社》を結成し、明治十三(一八八〇)年には慶応義塾系の実業家を集めて《交詢社》を組織する。また、明治十五(一八八二)年には『時事新報』を創刊し、「脱亜論」など多くの時論を発表した。明治三十四(一九〇一)年二月三日に六十六歳で死去。

「啓蒙」といふ語は『朱子』にも見られるが、明治に入つて〈enlighten〉の名詞形である〈enligtment〉の訳語とされた。〈enlighten〉の原義は「(光で)照らす」だが、転じて「理性の光で人々を無知から救ふ」といふ意味で用ゐることが一般的となつた。

諭吉は、少年時代から非合理な因習や迷信に批判的であつた。主君の名が記された紙を踏んだことを兄から咎められたことに納得ができず、試しに神札を踏んだり便所の後始末に用ゐたりしたけれども神罰が下らなかつたことや、祠の御神体とされてゐた石を別の石と取り換へ、それに気づかず人々が祭事を行ふ様子を陰から見て笑つたりしてゐたことなど、後に語つてゐる〔『福翁自伝』〕。

『学問のすゝめ』における個人と国家

諭吉の代表的著述は、云ふまでもなく『学問のすゝめ』である。同書は全十七編からなるが、明治五(一八七二)年二月に発表された初編は、郷里の中津に英学校を開設するに際して学問の重要性を説かんとしたものだ。

その冒頭は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言へり」といふ有名な一節である。

この記述は、「アメリカ独立宣言」における「我らは以下の諸事実を自明のものと見なす。全ての人間は平等につくられている」やF・ウェーランドの『道徳科学原理』における「別々の各個人は、他の個人とちやうど同じやうに、神がそれぞれの個人に与へた便宜を用ゐる同じ権利をもつて創造されてゐる」といつた表現を踏まえたものと考へられる〔小泉仰『福澤諭吉の宗教観』〕。「つくられてゐる」、「創造されてゐる」といふ表現からは造物主=キリスト教的な「神」の存在が想定されるが、諭吉は儒教における「天」と同一のものと解したやうだ。

より重要なのは、続く一節であらう。

………
(続く見出しのみ公開)
『文明論之概略』における国体論
『帝室論』と『尊王論』における功利主義
をはりに―福澤の功罪

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