国体論から観た壬申の乱 (上)――天武天皇は〝簒奪者〟だつたのか

東洋大学文学部日本文学文化学科非常勤講師・文藝評論家 山本直人

 壬申の乱、ふたたび

昭和十三(一九三八)年四月二十三日朝。静岡の興津の別邸にて、元老・西園寺公望は秘書の原田熊雄に向つて次の様に語つた。

「まさか陛下の御兄弟にかれこれいふことはあるまいけれども、しかし取巻きの如何によつては、日本の歴史にときどき繰り返されたやうに、弟が兄を殺して帝位につくといふやうな場面が相当に数多く見えてゐる。…或は皇族の中に変な者に担がれて何をしでかすか判らないやうな分子が出てくる情勢にも、平素から相当に注意して見てゐてもらはないと、事すこぶる重大だから、皇室のためにまた日本のためにこの点はくれぐれも考へておいてもらはなければならん。」(原田熊雄『西園寺公と政局 第六巻』・「第七章 近衛総理の辞意」から「皇室の将来に対する公爵の憂慮」岩波書店、昭二六)

前年六月に近衛文麿内閣成立後、ひと月を経て支那事変が勃発。翌年にその近衛が「国民政府を対手とせず」とする声明を出し、日中衝突が泥沼化していつた時期にあつた。改めて説明するまでもなく、「陛下の御兄弟」とは、昭和天皇の弟宮、秩父宮雍仁親王と高松宮宣仁親王のことである。

とりわけ天皇よりも一歳下の秩父宮は、二年前の二・二六事件の際、周囲から〝黒幕〟視され、その国民的人気と積極的な政治的発言から、西園寺も過剰な警戒を示してゐた。

この発言のひと月前にも、西園寺は原田に向つて、「たとへば神武天皇の後を承けられた綏靖天皇は、実はその御兄君を殺されて、自分が帝位につかれた。それはほんの一つの例で、さういふ事実は日本の歴史にも支那の歴史にもまだたくさんある」と述べてゐる。原田の日記の欄外には、「天智 弘文。唐太宗。近くは三代将軍の駿河大納言」との書き込みもあり、西園寺が如何なる歴史を念頭に置いてゐたかは明らかである。

明治維新以降、一世一元の制度が通例となつてから、皇位の兄弟継承といふことは原則としてなくなつたが、古代・中世において、皇位継承における兄弟の争ひは、歴史上しばしば見受けられる。とりわけ弘文・天武両帝の皇位をめぐつて争はれた壬申の乱は、古代争乱史上最も規模の大きいものであつた。

ところが明治四十年代、歴史学者の間で所謂「南北朝正閏論争」が展開され、「南朝」の正統性が決定的になつた。同時に維新以降、「弘文」の諡号を贈られた大友皇子への配慮もあつて、国定教科書から壬申の乱そのものが採りあげられることもなくなつてゐた。

保阪正康氏の『秩父宮と昭和天皇』(文藝春秋、平元)に、次の様な逸話が紹介されてゐる。

二・二六事件の記憶がまだ新しかつた昭和十一年三月、二・二六事件直後に本庄繁の後を承け、侍従武官長となつた宇佐見興屋中将に対して、天皇から「壬申の乱」について確認を促されたところ、宇佐見はこの歴史的事件を知らなかつたらしく、天皇から驚かれた宇佐見は、即座に勉強する様促されたといふのである。

宇佐見が知らなかつたのも無理はない。何しろ嘗ての国定教科書に壬申の乱の記述がなかつたからである。星野良作氏の『研究史壬申の乱』(吉川弘文館、昭四八)によると、「明治二十五年ころを境に、壬申の乱は教科書の記述から消えていく」といふ。それは、その二年前に発令された小学校令に基づき、明治二十四年、「小学校教則大綱」が定められ、「道徳教育が強く要請されて、歴史教科書編纂の基本方針が決定し、検定歴史教科書の一時期を画することになった」ことが理由として挙げられてゐる。そして、「その結果、教科書の構成は人物中心になり、やがて取り上げられる人物も固定化して国定教科書の基礎となっていく」といつた経緯が説明されてゐる。

その後、明治三十五年の教科書疑獄事件を受けて、翌三十六年に小学校令が改訂、三十七年から国定教科書の時代となる。明治四十一年の斎藤斐章の「歴史科教授法」によれば、従来の教科書と国定教科書の相違点として、「南北朝を同等にみたこと」「歴代の数がないこと」「壬申の乱がないこと」の三点が掲げられてゐる。驚くべきことに、そしてこの三点目の理由として、斎藤は、「…若し弘文天皇に対して天武天皇が兵を挙げられたとすれば、我が国史に例の無い、謀反人が戦勝の結果、皇位を嗣がるゝことになる。これは、国民教育上、寧ろ有害無益の教材であるから、寧ろ之を除去するが好いと云ふ帰結になる」と述べてゐる。

かうした国定教科書の判断が、その後の日本の歩みにとつて、本当に有益だつたか否か。その是非はさておき、壬申の乱といふ古代史上最大の皇族同士の御兄弟の争ひが如何に不幸な出来事であつたか、そしてそれを一般臣民に向け教授することが如何に困難だつたか、当時の教育関係者が如何に苦慮したかが察せられるのである。実際、昭和四十五年に池田書店から復刻された『尋常小学国史』を繙くと、壬申の乱は一切登場してゐない。それどころか、天智天皇の項目の後、次の章では、突然その七十年後の奈良時代の聖武天皇の時代に飛び、弘文天皇から天武天皇、持統天皇の時代が丸々省略されてしまつてゐることに気づくのである。
…… ……(続きは本誌「国体文化」平成28年12月号で)

 

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