八木秀次氏の知的怠慢 ― 井上毅『皇室典範義解』は規準たり得るか

 僭越至極なる物云ひ

週刊誌における昨今の皇室―とりわけ、皇太子同妃両殿下を巡る―報道は目にあまる。中でも、『週刊ポスト』(六月二十八日号)に掲載された「宮内庁内でも議論噴出!『秋篠宮を摂政に』は是か非か」といふ記事は黙視し難い。

この記事において、「宮内庁内部や一部の宮家関係者などの間で、将来、両殿下が天皇皇后になられた際、雅子妃の公務負担を軽減するため、秋篠宮殿下に摂政に就任していただくべきとする意見が出ているのです」〔原文ママ〕といふ「皇室に詳しいジャーナリスト」の発言が紹介されてゐる。事実であれば実に由々しきことだが、この「皇室に詳しいジャーナリスト」が何者か分からぬ以上、その真偽は確かめようもない。

このやうな出所不明の怪情報に対して、「保守」論壇の〈ニューリーダー〉と目され、安倍政権が設置した「教育再生実行会議」の委員を務める八木秀次氏〔高崎経済大学教授〕は「いま考えられる最も現実的な選択肢だ」、「雅子妃が療養を続けたまま皇太子殿下が天皇に即位された時、ご夫妻が十分に天皇皇后としてお務めできるだらうか、という懸念が国民から出てくるのは当然です。そのとき、秋篠宮殿下が摂政としてサポートできれば、状況はずいぶん改善されるのではないか」と肯定的な評価を下してゐる。

「ご夫妻が十分に天皇皇后としてお務めできるだらうかといふ懸念が国民から出てくるのは当然です」といふ物云ひは、僭越至極だ。十分に御公務を果たすことができないなら、将来の天皇・皇后として「不適格」であり、実質的に皇位から「棚上げ」せよと主張してゐるに等しい。

実を云ふと、八木氏には、『SAPIO』(平成十九年五月九日号)誌上の論文「『雅子妃問題』で天皇の本質的要素たる『宮中祭祀』が危機に瀕しつつある」において、両殿下の御離婚ないし皇太子殿下の皇位継承辞譲を説いた「前歴」がある。

 ……もしもこのまま雅子妃が宮中祭祀を受け入れられないなら、皇后としての資質に疑念を抱かざるを得ず、宮中祭祀、すなわち皇室の皇室たるゆえんを守るために離婚もやむを得ないということだ。
……現皇室典範でも、皇后の離婚は想定すべきものではなく、法もそれを許さないという考え方が背景にある……
つまり、御代代わりが起こった後ではもはや離婚はできない。とすれば、雅子妃がこのまま宮中祭祀を受け入れることができない事態が続くならば、御代代わりの前に離婚という事態も想定せざるを得ないということだ。
だが、「一生全力で守ります」という言葉で雅子妃にプロポーズされた皇太子殿下が離婚という事態を受け入れるとは思えない。では、皇室の根幹にかかわる宮中祭祀を守るためにはどうすればよいのか。……
現在、皇太子ご夫妻よりも秋篠宮ご夫妻の方が、天皇皇后両陛下を深く理解し、皇族としての強い責任感を抱き、将来の天皇、皇后に相応しい資質を持つとの見方が広がっている。とすれば、宮中祭祀を守る立場から、皇室典範第3条にある〈重大な事故〉を拡大解釈し、皇位継承権第1位の座から秋篠宮殿下に移そうとの議論が生じてもおかしくない。
雅子妃が適応障害から快復されない限り、その原因が「皇室の伝統としきたり」、とりわけ宮中祭祀にあることにますます焦点が集まるだろう。そして、雅子妃を守るために宮中祭祀を簡略化ないし廃止せよという声が起こってくると予想できる。男系継承の重要性を理解せずに女系天皇容認論が出てきたのと同様である。……宮中祭祀が簡略化ないし廃止され、なおかつ女系天皇が容認されれば、皇室制度は形骸化され、その存続が危うくなる。
今は何よりも雅子妃のご快復を願う。だが、一皇太子妃のご病状快復と歴史上連綿と続いてきた宮中祭祀が天秤に掛けられるようであれば、離婚ないし皇位継承権の変更を想定せざるを得ない事態になると思われる。

宮中祭祀のできない皇太子妃は将来の皇后として「不適格」であり、皇室から早く「排除」すべきと云つてゐるに等しい。この記事から六年あまり、「皇位継承辞譲論」から「秋篠宮摂政論」へと表現こそ穏やかになつたが、八木氏の尊大不遜な姿勢は全く変はつていないといふことだ。

もちろん、たとへ皇族であらうと、天皇の御稜威を毀損するが如き言動を公然となされたなら、臣子として諫言することは許されよう。かつて、三笠宮崇仁親王殿下が紀元節復活に反対された際、里見岸雄は殿下の非を指摘した。

けれども、今回の場合、皇太子妃殿下は御病気であり、宮中祭祀や公務に携はれないのは不可抗力だ。にもかゝはらず、「不適格」と決めつけ、剰へ「棚上げ」や「排除」を論ずる八木氏の姿勢は、主観的には皇室を憂いてのことであらうと、皇室の尊厳を侵すものであり、断じて許されるものではない。

 適応障害の原因は宮中祭祀か

先の引用文において、八木氏は「雅子妃が適応障害から快復されない限り、その原因が『皇室の伝統としきたり』、とりわけ宮中祭祀にあることにますます焦点が集まるだろう」と主張してゐるが、「適応障害」の原因は「『皇室の伝統としきたり』、とりわけ宮中祭祀」と云ひ切れるだらうか。

皇太子妃殿下におかれては、平成十一年十二月初めに御懐妊の徴候が報じられたものゝ、同月三十日には稽留流産の掻爬手術を受けられた。稽留流産とは胎児の発育が止まつたにもかゝはらず子宮に止まつてゐる状態といふ。決して珍しくない(六人の一人くらひの割合で起こる)現象といふが、我が子を失つた母親にとつてみれば大きなショックであつたらう。

加へて、御成婚から六年あまり、国民は「世継ぎ」の御生誕を心待ちにしてきた。その期待を裏切る形になつてしまつたことについても、御自身を責められたに違ひない。さらに云ふなら、この時点で妃殿下は三十六歳。妊娠の可能性は下がる一方であり、焦りも募られた筈だ。

このやうな三重苦に耐えかね、心身に変調を来されたのも当然であらう。平成十二年七月二十五日、妃殿下は香淳皇后の斂葬の儀を欠席された。

平成十三年四月、妃殿下の御懐妊が発表され、同年十二月一日には三十八歳で愛子内親王殿下を御出産になる。御懐妊中から「男系男子による皇位継承」を見直さうとする動きが起こつたものゝ実を結ばず、却つて「二人目」イコール男子を産まねばといふプレッシャーは強まるばかりだつた。

平成十五年十二月に妃殿下は帯状疱疹のために御入院を余儀なくされ、平成十六年五月には皇太子殿下が「雅子の人格を否定するやうな動きがあつたことも事実です」と御発言されるに至つた。そして、七月に入り、妃殿下が「適応障害」を病まれてゐると宮内庁から発表される。

慣れぬ「宮中祭祀」にストレスを感じられたこともあつたらうが、「世継ぎ」たる男子を産まなければならぬといふ強いプレッシャーに押し潰されたと見る方が遥かに自然ではないか。少なくともその可能性を考へるべきだが、プレッシャーを掛けた側である八木氏に考へろといふのは無理な望みか。

プレッシャーとして考へると、「適応障害」の克服が容易に進まない現状も説明がつく。妃殿下は既に四十九歳。お子様を御出産になることは不可能であり、女系による継承を認めようとも、旧皇族末裔の男子に皇籍を付与しようとも、男子を産めなかつたといふ現実を覆すことはできない。却つて、皇位継承軌範の重大な変更を招いたといふ新たな精神的御負担を感じられるかもしれぬ。

だからと云つて、皇位の安定継承を図るため、皇室典範の改正が必要だ。私たちは皇室を戴く忠良たる臣民として、皇室の永続といふ大義のために辛苦を重ねられてきた妃殿下の御心痛を拝察し、その御快復を忍耐強くお待ち申し上げねばない。

さうした臣民としての義務を果たすことなく、御病気から御快復されないからといつて妃殿下を「棚上げ」ないし「排除」するやうなことがあれば、八木氏が主張するやうに、旧皇族末裔の男系男子に皇籍を付与したところで、その新しい皇族と結婚しようとする女子が出てくるだらうか。

また、皇族に嫁いだ一人の女性を精神的に追ひ詰めたあげく見捨てたとなれば、たとへ「男系男子による皇位継承」といふ伝統が維持されたとしても、内外における皇室の権威は大きく失墜する。それこそ重大なる人権侵害事案として政治問題化し、「天皇制廃止」の機運が高まるだらう。さうなつた時、八木氏は責任が取れるのか。

 『皇室典範義解』は金科玉条にあらず

「男系男子による皇位継承」の重要性を説く八木氏の主張は井上毅の議論に基づいてゐるが、そこに問題はないのだらうか。

熊本藩士・飯田権五兵衛の三男として天保十四年十二月(一八四四年二月)に生まれた毅は、長じて井上家の養子となり、時習館(熊本藩の藩黌)や開成学校(後の東京帝国大学)に学んだ。その後、司法省の出仕となり、西欧使節団の一員としてフランスなどで司法制度の調査研究に従事する。帰国後は、大久保利通・岩倉具視・伊藤博文のブレーンとして、大日本帝国憲法・皇室典範・軍人勅諭・教育勅語などの起草に携はつた。

井上は、帝国憲法と皇室典範の逐条解説書も実質的に執筆してゐる。これらは、伊藤博文の名義で『大日本帝国憲法義解』・『皇室典範義解』として出版され、後の憲法および典範の解釈に多大な影響を与へた。

明治皇室典範(以下、明治典範)の第一条「大日本帝國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」を巡つて、『皇室典範義解』(以下、『典範義解』)は多くの紙幅を割いてゐる。

 恭て按ずるに、皇位の継承は祖宗以来既に明訓あり。和気清麻呂還奏の言に曰、「我国家開闢以来、君臣分定矣、以臣為君未之有也、天之日嗣、必立皇緒」と。
皇統は男系に限り女系の所出に及ばざるは皇家の成法なり。上代独女系を取らざるのみならず、神武天皇より崇峻天皇に至るまで三十二世、曾て女帝を立つるの例あらず。故に神功皇后は国に当ること六十九年終に摂位を以て終へたまへり。飯豊青尊政を摂し清寧天皇の後を承けしも、亦未だ皇位に即きたまはず。清寧天皇崩じて皇子なし。亦近親の皇族男なし。而して皇妹春日大娘あり。然るに皇妹位に即かずして群臣従祖履中天皇の孫顕宗天皇を推奉す。是れ以て上代既に不文の常典ありて易ふべからざるの家法を成したることを見るべし。其の後、推古天皇以来皇女即位の例なきに非ざるも、当時の事情を推原するに、一時国に当り幼帝の歳長ずるを待ちて位を伝へたまはむとするの権宜に外ならず。之を要するに祖宗の常憲に非ず。而して終に後世の模範と為すべからざるなり。本条皇位の継承を以て男系の男子に限り、而して又第二十一条に於て皇后皇女の摂政を掲ぐる者は、蓋皆先王の遺意を詔述する者にして、苟も新例を創むるに非ざるなり。
祖宗の皇統とは一系の正統を承くる皇胤を謂ふ。而して和気清麻呂の所謂皇緒なる者と其の解義を同くする者なり。皇統にして皇位を継ぐは必一系に限る。而して二三に分割すべからず。……
以上本条の意義を約説するに、祖宗以来皇祚継承の大義炳焉として日星の如く、万世に亘りて易ふべからざる者、蓋左の三大則とす。
第一 皇祚を践むは皇胤に限る。
第二 皇祚を践むは男系に限る。
第三 皇祚は一系にして分裂すべからず。
〔原文正漢字〕

皇位継承の歴史を概観した上で、「祖宗の皇統とは一系の正統を承くる皇胤を謂ふ」、「皇統は男系に限り女系の所出に及ばざるは皇家の成法なり」と論じてゐるが、こゝで云ふ「皇胤」に皇族女子が含まれるか否か判然としない。

「胤」といふ文字の原義は「ツグ」であり、ある因子を後の世代が受け継ぐことを意味するけれども、その男女を問はぬ以上、女系もまた「皇胤」と解してゐたと見るのが妥当だろう。女系を含めると「皇胤」が多数に及ぶからこそ、「一系の正統を承くる」と限定してゐるのだ。このことは、最後の三箇条において「皇胤」と「男系」とを区別してゐることからも窺へる。さすが、近代法制史に大きな足跡を遺した人物だけのことはあり、「胤」を「種」=「精子」として「皇胤」を「男系の子孫」とするが如き卑俗な論とは無縁だ。

その井上が、「皇統は男系に限り女系の所出に及ばざるは皇家の成法なり」と「女系」を排除したのは何故か。この点については、明治典範第四十四条「皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍内親王女王ノ称ヲ有セシムルコトアルヘシ」を巡る『典範義解』の記述が参考になる。

 恭て按ずるに、女子の嫁する者は各々其の夫の身分に従ふ。故に、皇族女子の臣籍に嫁したる者は皇族の列に在らず。此に臣籍と謂へるは専ら異姓の臣籍を謂へるなり。……

問題は、「異姓の臣籍」といふ概念だ。「姓」を有する臣下と婚姻した皇族女子は夫の「姓」を名乗ることになる。必然的に、両者の子は夫の「姓」を名乗るため「皇統」に含まれない。よつて、「女系」は「皇統」ではないといふ論理だ。

だが、かうした井上の議論には問題がある。

支那における「姓」は同一の先祖から出た男系の血族集団であり、「姓」が異なれば血統も異なる。だからこそ結婚しても、妻は夫の「姓」を名乗ることができない。また、臣下だけでなく皇帝も何らかの「姓」を有してゐた。それゆゑ、「異姓の臣籍」といふ概念が成立する。時には、「易姓革命」が起こり、「姓」の異なる別の一族から皇帝が生まれることもあつた。それは単なる政治権力の移行にとどまらず、社会構造の全面的変革を伴う。

また、インドには「種姓」といふ概念があるけれども、これはサンスクリット語の「ヴァルナ」の漢訳で、「バラモン(司祭)」・「クシャトリヤ(貴族)」・「ヴァイシャ(庶民)」・「シュードラ(賤民)」からなる宗教的身分階層を意味する。これら各階層の血統は厳密に区別され、混淆することはなかった。

対して、古代日本では、支那の「姓」にあたるものが「氏」であり、「姓」とは天皇から与へられるものであつた。蘇我馬子大臣であれば、「蘇我」が「氏」であり、「大臣」が「姓」である。一方、与へる側の天皇には「氏」も「姓」もない。

平安時代の初め頃から、「氏」と「姓」の区別は殆ど失はれ、皇族男子が「源」や「平」などの「姓」を賜つて臣籍降下するやうになつた。この場合、その末裔は「姓」を有するが「皇胤」であり、共通の血統を有する。また、皇族女子が臣下に降下したり、国民女子が宮中に入内することによつて、皇室と国民とは血統的に一体化してゐる。要するに、「姓」の有無は血統の本末を意味するものであり、異同を意味するものではない。

また、加へて「氏」や「姓」とは別に家族単位で「北条」や「足利」などの「苗字(名字)」を名乗るやうになつた。その後、明治五(一八七二)年に編纂された壬申戸籍において「氏」・「姓」・「苗字(名字)」は「氏」に一元化された。つまり、皇室典範が制定された時点では「姓」といふ制度は存在せず、井上が説く「異姓の臣籍」といふ概念は成立しない。

ついでに、明治典範の法的性格についても一言しておく。

『典範義解』には「皇室典範は皇室自ら其の家法を条定する者なり。故に公式に依り之を臣民に公布する者に非ず」と記されてゐる。この見地から、帝国憲法と同じく明治二十二(一八八九)年二月十一日に制定された時点では公布されなかった。

だが、敬称・皇室経費など国家との関係を定めた部分もあり、「国法」と見なすほかない。現に、明治四十(一九〇七)年二月および大正七(一九一八)年十一月の増補分は公布されてをり、『典範義解』の主張は実質的に否定された。

以上述べてきた通り、『典範義解』は日本法制史研究における第一級史料であるけれども、そこで示された解釈の是非については検討を重ねる余地がある。八木氏のやうに、そのまゝ立論の根拠とするのは知的怠慢と云はざるを得ない。

 立ち返るべき軌範
明治天皇に至るまで長きにわたり、皇位は男系によつて継承されてきた。推古天皇を初め八名十代の女性天皇も存在したが、女系による継承はなかつた。近世武家社会においては男子を当主に立てることが原則とされ、井上にすれば「男系男子による皇位継承」が自然であつた。だからこそ、井上は女系による皇位継承を否定する一方で、側室の存在を前提とし、庶子による継承を認めた。それは、明治初期においては常識的な選択であつたらう。

その後、大正天皇が側室制度を実質的に廃止され、昭和天皇をはじめ皇族方も倣はれた。また、女性の社会的地位も向上した。その上、占領政策を背景として皇族男子の人数が減少した結果、将来における皇室の存続さへ危ふくなり、明治典範が定めた皇位継承ルールは制度疲労を来してゐる。

我々が立ち返るべき軌範は、『皇室典範義解』ではなく、「葦原千五百秋瑞穂ノ国ハ、是レ吾ガ子孫ノ王タルベキ地ナリ」といふ「天壌無窮の神勅」である。そこには、「男系」・「女系」の別はない。また、先に述べたやうに、皇室と国民とは血統的に一体であり、女系継承を認めたとしても、万世一系の皇統は断絶しない。

我々は、「男系男子主義」といふ伝統を出来る限り尊重しつゝも、皇室の現状にふまへ、皇位継承の在り方を見直すべき時期に来てゐる。

『国体文化』(平成25年8月号)所収〕

金子宗徳(かねこ・むねのり)里見日本文化学研究所主任研究員

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