八木秀次論文に違和感あり ― 皇室を尊敬しているとは思えない発言

■大きな違和感

八木秀次という人に会ったのは、今から十数年前と記憶しているが、たしか「皇位継承」について相談をしたいというある人の斡旋で、十数人の会合であったと思う。場所は議員会館だったと思うが、衆議院か参議院かはっきりと覚えていない。

二時間ほどの話し合いであったが、会合の終わりのころ八木氏は「早く皇位継承問題の事務局を立ち上げて下さい」と言った。この言葉を聞いて、この男は信用できない、と私は直感したので以後ほとんどこの人の言論を信用していない。この会合の折りには例の「Y染色体」なる珍論はなかったと記憶している。

あらかじめ申しておくが、八木氏には個人的に恨みも尊敬も好きも嫌いもない、ただ皇室についての頓珍漢な議論にはついていけないので、たまには批判を試みようかというにすぎない。

この人の論文には、皇室を尊敬する根底がないように常々感じていたが、月刊誌「正論」五月号の、「憲法巡る両陛下ご発言公表への違和感」には、大きな違和感を覚えた。以下、批判になるかならぬか、感想発表になるか分からぬが、論をすすめてみよう。

■宮内庁への批判

「フロント・アベニュー」という欄で二ページの文章であるから、多くはつくせていないとは思うが、そもそもタイトルに「両陛下」と表現することには強く違和感を抱かざるを得ない。私は間違ってもこの言語表現は使用しない。なぜなら、天皇と皇后は同列にすべきものではないからである。天皇という位は、比類なきものであって、皇后陛下といえども本来は臣下である。三月二十六日、皇大神宮に参拝なされた折、天皇陛下が参拝され、その後に皇后陛下が参拝されておられる。かくのごとしと拝すべきものではなかろうか。

八木論文の冒頭は、元内閣官房副長官の石原信雄氏と短い時間の懇談を取り上げている。「いわゆる従軍慰安婦問題に関する河野談話について当時の事務方の最高責任者として責任を感じておられ、『これは国家の名誉に関わる問題』と強調されていた」との始まりである。

ついで、昭和天皇の御大葬にふれ、石原氏が事務方の最高責任者として取り仕切った経験から、「象徴として国民から崇められる存在のご最期に相応しいものにしなければならないと考えた」として、戦前のご大葬と遜色のないものになったと考えている、との話であったそうである。

ここで八木氏は、宮内庁が天皇、皇后の葬儀と御陵の簡略化と縮小の方針について、石原氏は「宮内庁のあり方を批判しているように感じられた」と、間接的に宮内庁を批判するのであるが、なぜ、正面攻撃で批判しないのか、いささか疑念が生じる。保守の論客として重んじられている八木氏が、こんなところで何に遠慮しての発言なのか、理解できない。

議論の巧みさに注意

論旨は皇后陛下のことにふれ、昨年十月「五月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされているように思います」とのお言葉から、「五日市憲法草案のことをしきりに思いだしておりました」との事について、八木氏は、「なぜ左翼・護憲派が持ち上げる五日市憲法草案なのだろうか」と言うのである。

さて、この議論にはトリックが潜んでいる。五日市憲法草案というのは、明治時代の話であって、左翼護憲連中が云々というのは為にする議論で、今日の憲法問題には何の関係もない。皇后陛下が国民のことを思われてのお言葉であり、左翼を無理やりくっつけるのは、議論として成立していない。

八木氏の議論構築の巧みさは、この文章につづけて天皇陛下の十二月十八日のお言葉を利用する。

「戦後、連合国の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」とのお言葉であるが、八木氏は次にこう述べる。

「陛下が日本国憲法の価値観を高く評価されていることが窺える。私がここで指摘しておきたいのは、両陛下のご発言が、安倍内閣が進めようとしている憲法改正への懸念の表明のように国民に受け止められかねないことだ。なぜこのタイミングなのか。デリケートな問題であることを踏まえない宮内庁に危うさを覚える」との言い分。

いやはや、八木氏は「宮内庁に危うさを覚える」などと括っているが、これは天皇陛下への批判以外の何物でもない。天皇という御位にある方が、何のために安倍内閣の憲法改正に協力しなければならないのか、おかしいではないか。オイ八木くん、お疲れのようですから、のんびり湯治でもされたら如何。

つづいて八木氏は、「憲法改正は対立のあるテーマだ。その一方の立場に立たれれば、もはや『国民統合の象徴』ではなくなってしまう。宮内庁のマネージメントはどうなっているのか」と、述べるのである。

何を言っているのかね、明治以来、「その一方の立場」に立たれた天皇がおられるのか、バカも休みやすみに言え、しかも「国民統合の象徴」ではなくなる。こんな事をだれが決めるのだ、八木自身が思ったところで何の役にも立たない。天皇の御位は国民が決めることでは断じてない。それを八木氏は理解できず、現代思想に「たぼらかされ」ているのだ。

天皇が、憲法を否定したり改正に反対するなどありえないことではないか。明治憲法以来、そのようなことは断じてなかったわけである。但し、遵守するのは当然の理である。学者、八木氏はなにを取り違えているのであろうか。

■どこから仄聞した

更に、「仄聞するところによれば、両陛下は安倍内閣や自民党の憲法に関する見解を誤解されているという」と言うのだが、どこから仄聞したの分からぬが、とんでもない言い分である。自民党の憲法に関しての見解に誤解も理解もないだろう。これは私の憶測、推測にすぎないが、あんな「自民党の憲法改正案」などに、天皇陛下がどう思われようと、国家にとり何の問題も生じない。そんなに自民党に加担しなければならい理由が八木さんにはあるのかね。

最後に、「それにしても両陛下の誤解を正す側近はいないのか。逆に誤った情報をすすんでお伝えしている者がいるのではとの疑念さえ湧いてくる。宮内庁への違和感と言ったのはそのような意味においてだ」と結語している。

さて、「両陛下の誤解」とはよくも言ったものだ。天皇も人間であるから「誤解」されることもあるやもしれぬ、だが、そのことがわれら臣下の分際でどうして分かるのか、ぜひ、八木秀次氏にご教授願いたいものである。

国体主義の立場から言えば、「天皇を絶対視」するということはあり得ない。ただ、今上と申し上げる陛下については、最大の敬意と尊敬をもつことが日本国民としての使命であることを忘れてはならないのである。勿論、歴代天皇に対する畏敬の念は当然のことではあるが。

日常の報道、新聞、テレビ、雑誌等の表現に、皇室に対してできるだけ敬語を略そうという意図がありありと見受けられる。朝日新聞や地方の変な新聞は論外として、NHKの皇室用語の使用は目茶苦茶で、正式敬称を使わず「さま」ですましている。外国の貴賓が来られたときはサマですますのか。

例えば、英国のエリザベス女王陛下が来日された時に、「エリザベス様」と報道した会社はなかったとおもうが、どうだ報道各社、そうじゃないか。

ことほどさように、日本の報道は変なのです。八木氏も著名人となって、社会の荒波にもまれているでしょうが、くれぐれも皇室にたいしての発言には気をつけられるよう申しておきたい。

小川主税

(「国体文化」平成26年5月号所収)

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