眞子内親王殿下の御婚約会見を拝して

降嫁の御意思

去る9月3日、天皇陛下の御裁可が下り、眞子内親王殿下と小室圭氏の御婚約が内定した。国民の一人として、謹んでお慶び申し上げ奉る。

同日の午後3時から、赤坂東邸の一室で殿下と小室氏との記者会見が行はれた。右手前方の扉より、まづ殿下、続いて小室氏の順で入室され、記者側から見て右側に殿下、左側に小室氏が着席した。その際、気になつたのは、お二人の席次である。

男女が横に並ぶ場合、我が国では、陰陽思想に基づき、陰にあたる左側に女、陽にあたる右側に男といふ形が伝統的に採られてきた。これは、並んでゐる当事者から見たものであり、それを見る側からは、向かつて男が右側、女が右側と逆になる。

後に、西洋の影響を受け、向かつて右側が女、左側が男と入れ換はる。清子内親王殿下や紀子女王殿下の記者会見においても同様の並びであり、今回の記者会見も前例を踏襲したのだらうが、結果として皇族である内親王殿下が一般国民である小室氏より扉近くの席に座られる形となつてしまひ、拝見する側としては落ち着かなかつた。これは、部屋の構造に起因するものである以上、会見場を設営する時点で何とかならなかつたのか。

会見では、主として殿下が記者の質問に答へられたが、その中で、殿下が「幼いころより結婚をするときは皇族の立場を離れるときであるといふ意識を持つて過ごしていました」、「お付き合ひをする人は結婚を考へられる人でありたい」と述てをられることは、注目に値する。

殿下の御婚約が報道された後、皇族女子を当主とする女性宮家を立てるく、御成婚までに皇室典範を改正せよと主張する者も見受けられたが、さうした考へを当事者たる内親王殿下が明確に否定された形だ。

これまでも本誌で述てきた通り、皇位継承資格者の減少といふ危機的状況を打開するには、明治皇室典範で否定された皇族女子の皇位継承資格を再び認めることを視野に入れるきと私は考へてゐる。

とは云へ、明治皇室典範において皇族女子の皇位継承資格が否定された背景には相応の事情があり、さらに皇族女子が皇族以外と御結婚された後も皇族の地位に止まられた前例もない。

それでもなほ新例を開くには、その当否について公開の場で徹底的な議論を重ねた上で、天皇に聖断を仰ぐといつた、国体に適ひ、なほかつ大多数の国民をして納得せしめる手続きが必要だ。

にもかかはらず、現時点では、宮家の当主たる皇族女子の配偶者となつた一般国民出身の男性について、皇族身分を付与するか否かはもちろん、その社会的役割に至つては殆ど議論がなされてをらず、これでは聖断を仰ぐどころではない。

さうである以上、本誌7月号に記したやうに、「現行制度の下で交際を続けてこられた以上、現行制度に従つて婚姻に至るのが筋といふもの」だらう。

<Let it be>

会見において、「性格や大切にしてゐること、趣味や座右の銘」について記者から問はれた小室氏は、次のやうに答へてゐる。

「性格でございますが、一言で申しますと単純といふことになると思ひます。どちらかと云へば鈍い方かもしれません。大切にしてゐることは、日常のペースを崩さないことでございます。趣味は多々ありますが、その中でも絵を描くことと音楽を聴くことは幼いころより親しんでまゐりました。休日にはピアノで好きなジャズを弾いてをります。また、体を動かすことも好きで四季折々のスポーツを楽しむこともあります。好きな言葉はLet it beでしょうか」

爽やかな好青年といふ外見通りの回答だが、好きな言葉として挙げた〈Let it be〉について申し上げておきたいことがある。小室氏が音楽好きとのことで、ビートルズの曲名から採つたと思はれるが、〈let〉は「させる」といふ意味の使役動詞、〈it〉は「それ」といふ意味の代名詞、〈be〉は「在る」といふ意味のbe動詞で、直訳すると「それで在らせろ」、厳密には「その状況に手を付けるな」といふ意味だ。

ここから転じて、「あるがまゝに」や「自然体で」と訳されることが多い。「太陽のやうな明るい笑顔」、「温かく励ましてくれる存在」、「真面目で御自分の強い考へと意思を持ちながら、努力される御姿、また、物事に心広く対応される姿に惹かれました」といふ殿下の御評価からして、小室氏の瑣末なことに拘らぬ快活な性格を窺ふことができる。

とは云へ、物事には二面性があることを忘れてはなるまい。〈Let it be〉にしても、「放つておけ」、「成り行き任せ」など無責任な態度に繋がりかねぬ意味を有してゐるるのだ。小室氏におかれては、「軽やかさ」だけでなく、今後は大人の男性らしい「重み」も身につけて下さればと思ふ。

伝統を率先して守る御姿勢を

それよりも気になつたのは、二人の出会ひから婚約に至る経緯に関する遣り取りだ。

この点について、殿下は

「小室さんと最初にお目にかかりましたのは、大学一年生のころでございましたが、すれ違うと軽くあいさつをする程度でございました。初めてきちんとお話をしましたのは、2012年、国際基督教大学が交換留学生のために教室で行った説明会でのことでした」

と述られ、小室氏も

「重なるところも多いと思いますが、初めてお話をきちんといたしましたのは、2012年の交換留学に伴う大学構内での説明会でした。交換留学前からお付き合いを始め、その後、宮さまはイギリスへ、私はアメリカへ1年間留学し、長く遠く離れておりましたが、その間もしばしば連絡をとりながら、交際を深めてまいりました。帰国後もお互いの気持ちを確認しあいながら、プロポーズに至りました。2013年の12月に私から宮さまに『将来結婚しましょう』というように申し上げました。場所は都内で、食事の後、二人で歩いていた時であったと記憶しております」

と述てゐる。

至つて健全な男女交際を巡る御発言であるが、なぜ「平成24年」や「平成25年」といふ元号ではなく、「2012年」や「2013年」と西暦を使はれたのだらうか。云ふまでもなく、元号は天皇によつて定められるものだ。これは、君主が空間と共に時間を支配するという思想に基づいてをり、「正朔を奉ずる」(=君主の定めた元号と暦法を用いる)ことは君主の統治に服してゐる証だ。

元号を最初に定めたのは、前漢の七代皇帝・武帝である。この頃、前漢は北方の匈奴を打ち破るなど最盛期を迎へてゐた。武帝は、己丑の歳(紀元前115)を宝鼎の発見を瑞祥として「元鼎元年」とし、併せて自らの即位した辛丑の歳(紀元前140)を「建元元年」と遡つて定めるなどした。この紀年法が我が国に伝はり、我が国においては、第36代・孝徳天皇の即位に際して、乙巳の歳(645)が「大化元年」と定められた。

その後、一時的に中断するも、文武天皇5年(701)に対馬から金が献上されたことを瑞祥として「大宝元年」と建元して以来、今日に至るまで元号が定められてきた。

明治以前は、瑞祥や災害などを契機として改元される一方、御代替はりがあつても改元されぬこともあつたが、慶応4年(1868)9月8日、明治天皇は

「太乙(=北極星のこと。転じて天照大神の意)を体して位に登り、景命(=天命)を膺けて以て元を改む。洵に聖代の典型にして、万世の標準なり。朕、否徳と雖も、幸に祖宗の霊に頼り、祇みて鴻緒を承け、躬万機の政を親す。乃ち元を改めて、海内の億兆と与に、更始一新せむと欲す。其れ慶応4年を改めて、明治元年と為す。今より以後、旧制を革易し、一世一元、以て永式と為す。主者施行せよ」

と、天皇の在位中には元号を改めぬことゝした。

この制は、大日本帝国憲法と同時に制定された明治皇室典範にも踏襲され、元号と天皇との特別な関係が近代法として定められた。

ところが、大東亜戦争敗戦に伴つて明治皇室典範が廃止され、日本国憲法の下位法として制定された新しい皇室典範から元号に関する規定が削除された結果、元号の法的根拠が失はれてしまつた。

昭和天皇が御退位されることがなかつたため、元号は継続して用ゐられたが、再法制化を求める国民の声を受け、昭和54年(1979)に「元号法」が制定される。その後、昭和天皇の崩御および今上陛下の即位に伴ひ、元号法に基づいて「昭和」が「平成」へと改められた。今日、公文書においては原則として元号で表記されてゐるものゝ、私文書においては書き手の自由だ。

現に、この文章でも、元号を主としつゝも西暦を付してゐる。長いスパンで時間の経過を捉へるには、西暦が分かり易いからだ。また、IT化が進む今日、数字だけで年代の特定が可能である上に、欧米の先進国でも使はれてゐる西暦は確かに便利である。

今上陛下の御譲位に伴ひ、近いうちに新元号が定められる。

その時期を巡り、新年に合はせて1月1日とか、年度初めの4月1日とか、政府筋の発言を根拠にしてマスコミが騒ぎ立てゝゐる。とは云へ、その殆どが利便性の論理に基づくものであり、議論を突き詰めていくと、「元号不要論」さらには「西暦一元論」に繋がり兼ねない。

けれども、西暦はラテン語の〈AnnoDomini〉(主の年)を訳したもので、救済者(キリスト)たるイエスが生まれたとされる年の翌年を元年とする紀年法だ。昨今では、ポリティカル・コレクトネスの観点から〈CommonEra〉(共通年代)と表記されることもあるが、その由緒を忘れてはならない。

さう思ふからこそ、殿下と小室氏が婚約の記者会見といふ場で西暦を使はれたことが何とも残念だつた。当世風に西暦を日頃から常用されてゐるのかもしれぬが、「キリストが生まれてから何年目」ではなく、「御祖父様であられる今上陛下の御代が始まつて何年目」に運命の相手と出会つた云々と会見で仰られたなら、元号に対する一般国民の関心を高める絶好の契機となつたであらう。婚約に際して記者会見をなさるのは、天皇の御分身たる皇族の婚姻が純然たる私事ではなく公的性格を有するからだ。

さうであるならば、慶事を奉祝する国民の関心に応へる場としてだけでなく、統治者としての天皇の御存在を国民に知らしめる場として記者会見を活用されることが望ましいと愚考するが、臣としての分を外れた出過ぎた物云ひだらうか。

「皇室の藩屏」たる御自覚を

記者会見において、小室氏は「内親王さまをお迎へすることは、非常に責任が重いことゝ思ひ、真摯に受け止めてをります」と述てゐるが、こゝでいふ「責任」が、妻たる女性を幸せにするといつた次元の話だけであつてはならぬ。

殿下と小室氏が出会はれた平成24年と云へば、野田佳彦内閣が女性宮家創設を検討すきといふ方針を示した時期と重なる。議論の進展具合によつては、内親王殿下の御降嫁といふ形でなく、自身が皇族となる可能性すらあつたのだ。

今後、たとへ女性宮家が創設されたとしても、降嫁された殿下が皇籍に復帰されることはないだらう。けれども、叔母にあたる黒田清子氏のやうに、神宮祭主を務められたり、皇室を陰ながらお支へしたりすることは十分に考へられる。

華族制度が廃された今日、「藩屏」として皇室を守護し奉る一族は公的に存在しない。もちろん、その流れを汲む人々の中には、自らの血統を意識して「藩屏」たらんとの強い自覚を有してゐる者もあらうが、その社会的影響力には限界がある。

一方、皇族として生まれ、長じて降嫁された女性、そして、その夫君や御家族は、社会における注目度の高さゆゑ、御自身が望むと望まざるとにかゝはらず極めて大きな影響力を有してをられる。とりわけ、今上陛下の初孫であられる眞子内親王殿下の御動静に関する国民の関心は非常に高い。

逆に云へば、もし何らかの醜聞に巻き込まれるやうなことがあれば、その累が皇室に及びかねない。それゆゑ、法的には他の一般国民と同様であるにせよ、慎重な御振舞ひが求められてゐる。

また、小室氏は、

「現在、奥野総合法律事務所・外国法共同事業にて正規職員として働いてゐる傍ら、社会人入学した大学院に夜間で通つてをります。今後のことで思い描いてゐることはございますが、今は目の前の仕事と勉学にしつかり取り組むことが重要であると考へてをります」

と述てゐるが、御職業の選択に際しても慎重な判断が求められる。

本誌7月号において、筆者は旧皇族身位令の条文を紹介した。そこでは、皇族は議員のみならず営利企業の社員や公共団体の職員となること、官職以外で報酬を受け取ることが禁止されてゐる。かうした規定が作られた背景には、皇族が特定の集団と深く結びつき、利害の対立に巻き込まれることがないやうにといふ配慮があると思はれる。

もし、そのやうな対立に皇族が巻き込まれた場合、対立する組織に属する者は当該の皇族を怨み、ひいては天皇に対する憎悪を募らせかねないからだ。

この規定は、降嫁された女性と御家族を対象とするものではないが、立法の趣旨を鑑みれば、同様の御配慮が必要とはわれる。

《奥野法律総合事務所・外国法共同事業》のウェブサイト(http://www.okunolaw.com/)によれば、

「会社の組織再編及び事業再生等、コーポレート、金融、民事紛争(交渉・訴訟)、知的財産権、競争法、個人の皆様の案件、教育・社会貢献活動等」

が業務として挙げられてゐる。パラリーガルである小室氏が代理人となることはないものゝ、民事紛争に際して一方の側に立つこともある。法実務を学ぶといふ目的を果たされた暁には、次のステップについて殿下とよく話し合つて頂きたいと、心より御願ひ申し上げる。

〔平成29年9月7日〕

金子宗德(かねこ・むねのり)里見日本文化学研究所所長/亜細亜大学非常勤講師

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