許し難き僭上不敬なる“八木イズム” ― 天皇の権能を蹂躙する愚かなる摂政論

言語道断「週刊新潮」に徹底的謝罪を求めよ

皇太子殿下に皇位の辞譲を求めた山折哲雄(宗教学者)の不敬論考が『文藝春秋』に掲載されたことをきっかけに、一部の週刊誌が皇太子同妃両殿下に関する不敬記事を書き散らし、物議を醸してゐる。「『雅子妃』不適格で『悠仁親王』即位への道」(「週刊新潮」六月二十日号)「『雅子妃』不適格は暗黙の了解『千代田』の迷宮」(「週刊新潮」六月二十七日号)「宮内庁内でも議論噴出!『秋篠宮を摂政に』は是か非か」(「週刊ポスト」六月二十八号)などだ。

週刊誌が下らぬ捏造記事を垂れ流すのは日常茶飯事であるが、内容が皇室に及ぶ以上、放つてをくわけにはゆかない。特に、「週刊新潮」(六月二十号)の記事は驚天動地の内容であつた。

記事によれば、宮内庁が極秘裏に皇室典範の改正を進め、内閣に伝へて検討してゐるといふのだ。その内容は、「天皇が自らの意思で生前に退位し、譲位することができる」さらに、「皇位継承権のある皇族が即位を辞退することを認める」ともある。

宮内庁は、六月十四日に風岡長官の名で同編集部に抗議文を送つて訂正記事の掲載を求め、同日の記者会見で「このようなことは一切なく強い憤りを感じている」と述べた。また、政府側も菅官房長官が「極めて重要なことがらで国民に重大な誤解を与える恐れがあり、極めて遺憾」と全面否定した。当然のことだ。

しかし、新潮側は、「記事は機密性の高い水面下の動きに言及したものです。内容には自信を持っております」などと主張し、訂正記事の掲載は勿論、謝罪さへしてゐない。心底から憤りを感ずる。宮内庁及び政府(安倍首相)は、新潮社が謝罪して訂正の記事を掲載する迄、徹底的に対応すべきである。もし、これが出来ないのであれば、「週刊新潮」の記事は真実といふことになる。 宮内庁の使命は身近にあつて皇室を守護し奉ることであり、皇室と国民の関係を結ぶ重要な国家的役割を担つてゐる。そのトップたる長官は勿論のこと、その配下にある職員の服務規律は厳重でなければならず、各職員は個人的言行に一方ならぬ注意を払ひ、国民の皇室認識に多大の影響を及ぼすことのないやう慎重であるべきだ。決して君徳を汚損する無智不明なことが起こらぬやう務めねばならない。

宮内庁は、ここ十年に亘る皇太子殿下同妃殿下に対するマスコミのバッシング、とりわけ雅子妃殿下に対する誹謗中傷ともいふべき捏造記事に対し、東宮御一家をお守りすべく確固たる態度を示してきたか。皇室ジャーナリストの言として取り上げられ、なほかつ、宮内庁関係者が明かす内容として記事の内容が事実に反してゐた場合、その誤りを認めさせる努力をしてきたか。

それを怠つてきたからマスコミが増長したのであり、今回のやうな不敬記事が掲載されるのだ。このやうな記事が掲載されるといふことじたい、宮内庁が皇室擁護の任務を果たし得てゐないといふことを意味し、宮内庁内部に皇室解体を目指す勢力が入り込んでゐるなどと謂はれてもしかたがない。

宮内庁の対応しだいでは、宮内庁に対する信頼は完全に失はれるだらう。

 最終責任は安倍首相にあり

ただ、今回の如き尋常ならざる不敬捏造報道の原因を宮内庁にのみ求めるのは正当ではない。根本的には、安倍首相が皇位継承問題に絡む女性宮家創設を白紙に戻したためだと私は考へる。

安倍首相は何を躊躇したのか。天皇陛下の宸襟を悩まし奉つたのは、将来に亘る安定的皇位継承・皇統存続の問題である。皇位・皇統の永続に危機が迫つてゐるといふのに決断を引き延ばし、何らの対応もせず荏苒時を空費してゐる怠慢こそ、不敬捏造記事掲載の根本的な原因と云はねばならぬ。

皇統永続の危機が迫つてゐるといふことは、国家の安定、統一を失ふといふことではないか。当然のことながら、身近に奉仕する者は精神的不安を抱く。精神的不安は何を齎すか。確固たる国体意識を持たぬ者が、愚かなことを考へて口にする。

その結果が、一連の退位、譲位論、摂政論の出現であり、不敬捏造報道である。全ては皇位継承の問題を先延ばしにし、将来の皇位継承を不安定にしてゐるから起こる現象である。国家の安定を欠くところ、必ず不逞の輩が跋扈して、くだらない、ろくでもない論をまき散らすのである。安倍首相は、この事を深く自覚するところがなくてはならぬ。

皇室問題の一切の疑惑、疑義を払拭し、国家の精神的安定、統一を確立するため、安倍首相は早急に皇統維持の方策を定め、何が何でも皇室典範改正を政治日程に上げなければならぬ。

 僭上不敬、八木秀次氏の発言

話を週刊誌の不敬捏造記事に戻さう。ここで問題にしたいのは、「週刊ポスト」(六月二十八日号)に掲載された「宮内庁でも議論噴出『秋篠宮を摂政』は是か非か」といふ記事だ。

この記事によれば、「将来、両殿下が天皇皇后になられた際、雅子妃の公務負担を軽減するため、秋篠宮殿下に摂政に就任していただくべきだとする意見」が宮内庁内部や一部の宮家関係者などの間で囁かれてゐるらしいといふのだ、私には、なぜ今の時点で、それも唐突に秋篠宮殿下に摂政になつて戴くなどといふことが浮上してくるのか全く理解不能である。

宮家の御意向まで匂はせて、如何にも記事の信憑性が有るごとき見せかける「週刊ポスト」のやり口は卑劣で手の混んだやり方だが、この構想に臆面もなく賛意を示し、僭上の発言を繰り返してゐる自称「保守」系学者がゐる。他ならぬ憲法学者の八木秀次氏〔高崎経済大学教授〕だ。

八木氏は言ふ。「いま考へられる最も現実的な選択肢」であり、「宮内庁内で検討課題になっていなければおかしい話ですが、これまでは選択肢の一つとして話すこと自体、タブーとされてきました。しかし、いまやこれに関する議論を避けてはいけない」と。

八木氏は、さらに続けて、「雅子妃が療養を続けたまま皇太子殿下が天皇に即位された時、ご夫妻が十分に天皇皇后としてお務めできるだろうか、といふ懸念が国民から出てくるのは当然です。そのとき、秋篠宮殿下が摂政としてサポートできれば、状況はずいぶん改善されるのではないか」と述べる。

八木氏は憲法学者である。憲法学者が、憲法の根底に流れる国体法理を弁へることなく、よくも軽々にこんな発言ができるものだと空恐ろしくなつた。はつきり言つて、精神が尋常ではない。実に騙慢非礼、謹みを欠いた発言ではないか。八木氏には尊皇心の一片けらもなく、非日本人的盲断を以て俑をなす学者だ。

もし、八木氏の如き暴論が実現するといふ事になれば、この邪想のために我が国は取り返しのつかぬ破綻を来し、後悔臍をかむときがくる。

 摂政規定は、皇位継承の歴史的反省に立つ

そもそも、皇室典範の摂政規定は、過去の皇位継承に対する歴史的反省の上に成り立つた理性的規範である。

古代には、天皇の退位や譲位などといふことはなかつた。しかし、藤原氏が政権を握るようになつてから、さういふことが行はれ始めた。藤原氏は摂政関白として如何に政治を壟断したか。以後、徳川時代の終りまで、頻繁に退位や譲位が繰り返された。

明治維新後に近代的憲法と皇室典範を制定する際、しばしば行はれてきた退位や譲位を否定し、皇位継承は天皇の崩御の場合以外、これを認めないといふ制度を確立した。この精神は、現皇室典範にも継承されてゐる。

なぜ典範は、一切退位や譲位を否定したのか。そこに忌はしき内紛や内争がつきまとふからだ。何らかの理由によつて至高の皇位を退くことが出来る、譲ることが出来ることになれば、どんな理由で退位を要求する者が現はれないとも限らないのだ。また、どんな方法で譲位を強要するかも分らない。また、誰に譲位するかの大問題も持ち上がる。皇位継承は、皇嗣にとつて神聖なる国体の本義を深く自覚されるところの絶対の義務、使命なのであつて、一切の思惑、好悪、策謀、比較などを許さぬといふのが皇位継承の本義である。

皇位に準ずる摂政についても、皇位継承の尊厳・神聖を維持するために、決して他の何人も容喙することのないやう、後述の如く、摂政の「資格」及び「順位」、「事由」がはつきりと定められてゐる。それが、皇室典範の第三章「摂政」の規定である。この規定の精神を破るは、皇統・皇位の神聖を冒涜する以外の何物でもなく、僭上の大逆思想と断じなければならぬ。

八木氏が発想する秋篠宮摂政待望論は、明らかに憶測や希望、好悪、比較、果ては強要の策謀そのものではないか。八木氏のやうな思想は、天人共に許さざる邪想であり、国家の安定を破り、皇位の動揺を来すものであつて、厳に排斥されねばならぬ。明治皇室典範の制定を主導した井上毅の研究者であり、その経緯を十分に知つてゐるにもかかはらず、現実の問題になると平然と黙殺する八木氏の心性には呆れるばかりだ。

 摂政設置の客観的事由

そもそも、摂政とは如何なる場合に置かれるのか、皇室典範には
第十六条 天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。
2 天皇が、精神若しくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為を自らすることができない時は、皇室会議の議により、摂政を置く。
第十七条 摂政は、左の順序により、成年に達した皇族が、これに就任する。
一 皇太子、又は皇太孫
二 親王及び王
三 皇后
四 皇太后
五 太皇太后
六 内親王及び女王
と紛更の余地なき規定となつてゐる。即ち、天皇が成年に達してゐないとき、または、天皇が心身の故障又は重大な事故がおありになつた場合、国事に関する行為を自ら行はせられることが出来ない場合に限り摂政が置かれるのである。それ以外に摂政が置かれることはない。

現在、天皇が精神若しくは身体の重患又は重大な事故がおありになられるか、全くない。しかるに、何故に皇太子殿下が天皇にならせられる時を想定し、今の時点で「天皇皇后としてお務めができるであらうか」などと邪想し、且つ務まらないであらうと断定し、秋篠宮殿下に摂政としてサポートして戴けばよいなどと言へるのか。自らの僭上、不敬を告白してゐるようなものではないか。

そもそも、彼が皇太子殿下が天皇として務まらないと断定する根拠は何か。妃殿下の病状が芳しくなく、その妃殿下を大切にされるあまり公務を疎かにしてゐるといふ、下世話な噂話に誑かされてゐるに過ぎぬのではないか。

全く取るに足りない邪推、為にする記事に影響されてのものではないか。皇太子殿下には、泰然自若、妃殿下をお守りになられて些かも揺らいでをられない。殿下は、皇位継承順位第一位として、やがて万世一系の天皇と御成りになられるのである。万世一系の天皇とならせ給へば、日本国を統治あそばす神聖なるお方となられるのである。即ち、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の国体法を体現なさるのである。これ、我等の固き確信である。

 天皇の任命による権能を蹂躙してゐる

摂政に関わる原則を無視して、なぜ八木氏の如き発想が生まれるのか。それは、摂政が天皇の任命行為であるといふ事実が分つてゐないためである。帝国憲法時代なら、それは大権行為である。実は、現行の典範でも摂政を置かせられるのは天皇の権能に属することだ。

そもそも、摂政を「置く」とは、誰によつて置かれるのか考へてみるがよい。「摂政を置く」とは、置く主体は天皇の外にはあり得ないであらう。第十六条二項には、「皇室会議の議により、摂政を置く」とある。皇室会議が「置く」のではなく、「皇室会議の議により」とは、「皇室会議の議」を経て「天皇」により摂政が置かれるのである。つまり天皇は、摂政の能置者であるといふ事だ。

能置者であられる天皇が「置く」のであるから、置かれる行為は「任命する」といふことに外ならない。明らかなる天皇の権能である。摂政であるべき皇族は、摂政になる前に「国事行為代行」をすることは出来ない。法的事由が発生した瞬間、そこには厳然と天皇がましますのである。このまします天皇との関係、つまり、権威を無視して摂政就任はあり得ぬことだらう。

だからこそ、日本国憲法、第五条には、「摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ」とある。「天皇の名で」と規定されてゐるのだ。摂政就任は、必ず、そこに摂政を摂政たらしむる権威としての天皇の存在が前提となつてゐるのである。

この天皇の権威の表示が任命行為である。天皇の御名御璽なきところ、摂政の義は成立しないのである。

この天皇任命の名分、権能を閑却し、無視し、干犯するは、国体の尊厳、日本政治の公正を根底から破るものであり、天皇神聖を侵す不忠の者ではないか。

 我々は、大正十年十一月二十五日官報を以て公布された詔書に注目すべきだ。この詔書には
朕久シキニ亘ルノ疾患ニ由リ、大政ヲ親ラスルコト能ハサルヲ以テ、皇族会議及枢密顧問ノ議ヲ経テ、皇太子裕仁親王、摂政ニ任ス。茲ニ之ヲ宣布ス。(『みことのり』錦正社)

と仰せられてゐる事実に着目せねばならぬ。「摂政ニ任ス」とある。「任ス」とは、「天皇の任命」である。また、「茲ニ之ヲ宣布ス」とある。宣布するは、天皇が「宣布」せられるのである。憲法学者である八木氏が、摂政の事を論ずるのに、だうして、この厳然たる(今にあつては唯一の、しかも、後世に対しては先例規範となつてゐる)この詔書を無視して、徒らに愚論・暴論を口にするのか実に不思議である。

八木氏の摂政論が善意のための議論であつたとしても、詔書に照らし、国体の大義名分に明らかに反するものであり、空理、空論、戯論といふものである。天皇の権威、権能、大義名分を蹂躙して愧じぬところに、八木氏最大の思想的弱点が潜んでゐるのである。

 国体不弁の合理思想から脱却せよ

八木氏が斯かる暴論を述べて、恬然として愧じることがないのは何故か。それは、「国体」に立脚した天皇観でないからだ。

八木氏は、一応、①皇統、皇位を侵してはならないと考へてゐる。②そして、皇位は万世一系の皇統で継ぐべきもので、個人の能力や徳で継ぐべきものではないとも思つてゐる。しかし、③天皇最大の役割は、国家、国民の為に祈ること、即ち、祭祀にあるから、この天皇最大の役割を充分に果たし得ないと判断さる事態が起こつた場合、摂政を定めて補完すればよい。④この摂政を置く場合、その判断する基準は国民にある、といふものなのである。実に、③と④の考へこそ、八木氏を拘束してゐる悪しき邪想なのだ。

八木氏は、明確に退位、譲位を求めてはゐない、しかし、国家、国民のためならば、帰する処、天皇を退位させ、譲位させても可なりとする合理主義に立つてゐるのだ。これは、天皇よりも国民を上位の権威とする発想と云はざるを得ない。

国民を天皇、国体よりも上位の権威としてゐることは、「雅子妃が療養を続けたまま皇太子殿下が天皇に即位された時、ご夫妻が十分に天皇皇后としてお務めできるだろうか、といふ懸念が国民から出てくるのは当然です。そのとき、秋篠宮殿下が摂政としてサポートできれば、状況はずいぶん改善されるのではないか」といふ先に引用した発言を見る限り明らかだ。

さらに、皇太子同妃殿下がオランダご訪問後、皇太子殿下が御一人にて、スペインをご訪問になられてをられる時の、スペインのメディアが「皇太子はまた一人になった。雅子妃は再び檻に戻り悲しんでいる」(エルパイス紙)の記事を受けて、「代わりに秋篠宮ご夫妻が訪問したとしても、一宮家の立場だと格が下がってしまう。しかし、摂政宮とその妃という立場ならば重みが生まれ、相手国の受け止め方も変わってくるはずです」などと言ふのだ。秋篠宮殿下が摂政となれば格が上がり、重みが生まれるなどといふことが、摂政を置くことの理由なのであるから、空いた口が塞がらないではないか。

そればかりか、「天皇の最大の役割は国家と国民のために祈ること、すなわち宮中祭祀にあります。……現状のままでは、次男である秋篠宮殿下は一子相伝に与らず、従って悠仁親王に伝承することが難しい。しかしこれも、秋篠宮殿下が摂政に就任すれば、いま以上に宮中祭祀に深く関わることができ、悠仁親王への伝承がしやすくなる可能性もある」と述べるのだ。

「天皇の最大の役割は国家と国民のために祈ること」というが、「天皇の最大の役割」とは、そもそも何であるのか。この言葉を、八木氏は著書で頻繁に使用してゐるが、天皇といふ存在は割り当てられ、引き受けた「役割」に過ぎぬのか。その「役割」に堪へられない天皇は、天皇ではないと言つてゐるに等しいではないか。「天皇の最大の役割」と言つてゐるのであるから、間違ひなからう。つまり、天皇たり得るか否かは、国家、国民の為に祈るか祈らないかが基準といふことになる。

この思想こそ、〝八木イズム〟といふべきもので、国家、国民を絶対の基準とするものであるから、国民の意に沿はぬ、国民の為にならぬ天皇は、徳のない天皇であり、国家、国民のためには、最終的には退位、譲位もやむを得ずとする思想に繋がつてくるのである。皇統とは男系の血統であり、徳で継承するものではないと主張しながら、最終的には、個人の徳を云々して恥ぢない。皇太子殿下をさし置いて秋篠宮殿下に摂政就任を願ふ態度は、何よりの証明である。藤原氏が摂政関白となつて、政治を壟断した思想と同じである。「国体」を知らざる者の陥る最大の矛盾と云はねばならぬ。

「皇太子殿下に御忠言申しあげます」などと称し、皇室を批判してきた輩も同じ穴の貉である。みな、この国民を主とし、国民の為に祈らぬ、国民の為に公務を疎かにするは、国民のための存在ではない、全て国民の側からかうせよ、ああせよと皇室に要求してゐるのだ。かかる思想が日本の健全をもたらし得る訳がない。

天皇が国家、国民の為に祈らせられることは、天皇統治の自然の発露なのであつて、国家、国民のために祈らせられることが最大の役割ではない。ここを穿き違へてはいけない。天皇の存在とは何か、天皇の統治意志とは何か、天皇の使命とは何かについて、もつと掘り下げた自覚に到達すべきだ。

天皇、皇族の持つ道義的、政治的、精神的意義がいかに重いものであるかを確信するところがなければならぬ。「君民一体」と言はれてきた言葉には、その根本精神が宿つてゐるのである。国家、国民のために祈る天皇ではなく、君民が道に一致して国体を護持する。これが、日本人最大の使命である。本末を顛倒してはならない。

この真義が解らぬ者に、国体、天皇を語る資格などない。尊皇とは、かくなる精神の発露であり行動だ。天皇に帰一することを以て、国民の道、即ち臣民道を自覚し実践することこそ肝要と云はねばならない。

『国体文化』(平成25年8月号)所収〕

河本學嗣郎(かはもと・がくしらう)日本国体学会理事長

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