批判的聖教量価値認識の必要性 ― 東都で国体思想研究会・第52回例会(6月19日)

6月19日、都内で、国体思想研究会・第52回例会が開催された。

今回は、まず、関連文献として里見博士の『国体宗教批判学』〔昭和四年・国体科学社〕の第四章「宗学暗愚の原因としての聖教量主義」を輪読した。

聖教量とは仏教論理学である因明の用語で、現量・比量と合わせて三量という。 この三量は文證・現證・道理と対応するもので、聖教量あるいは文證が「経典や宗祖の遺文などの聖典」、現量あるいは現證が「客観的事実としての経験」、比量あるいは道理が「正当なる論理に基く推論」を意味し、ある考えや行為が教義に照らして正当であるか否かを判断する基準とされる。

宗教が「純愛と尊信とを教祖の人格の中に宿つた不死の生命に捧げる」ものである以上、真理を証明して非真を批判するに際して、教祖の遺言を引証しようとするのは信仰者としては当然の傾向である。さらに、教祖として仰がれている人物は非凡の聖賢であり、その言動は時代を超えて高き権威として引証し得るだけの内容を有しているはずであるから、聖教量に絶対的権威を認める聖教量主義は 十二分に成立する。

だが、幾百年・幾千年前に成立した聖典には、自然科学の見地からすれば未熟な部分、あるいは明らかな誤謬を含んでおり、社会認識の見地からしても経典成立以前の社会的経験以外は反映されてい ない。そのため、教祖を人間以外の全知全能なる存在とする盲目的(迷信的)聖教量主義に陥ってしまうと、学術の進歩・ 思想の発達は起り得ず、文化の停滞を招いてしまう。

それゆえ、聖典の一字一句が時空を超越した真理であると見なす盲目的聖教量主義は成立し得ないけれども、「聖典の基調を為し、眼目を為しつゝある幾多の真理の承認は可能」であり、そうした「聖典の根本的価値を傾向に於て確実に把握」し、その「正当なる発展を確保」する批判的尊信を目指さねばならぬ。

続いて、『吼えろ日蓮』に戻り、第二章「此のあはれなる日蓮主義者を見よ」の七「驚くべき個人主義」を輪読。

その中で、里見博士は「今後の日蓮主義は、もはや哲学であり、いはゆる宗学であり、形而上学であり、神秘思想であり、独断的信仰であつてはならぬ。それは、必然、科学に於て把握さるべきだ」 と述べている。

つまり、聖典の根本的価値を科学的な手法で確実に把握し、その価値を科学的な手法で発展せしめることが何よりも重要なのだ。〔東山邦守〕

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