国を亡ぼすまで戦う覚悟 ― 東都で崎門学研究会(6月13日)

6月13日、第12回「尊皇討幕のバイブル、『靖献遺言』を読む会」を開催した。

今回は前回に引き続き謝枋得についてである。

『靖献遺言』における謝枋得の項には、北宋の滅亡のきっかけとなった靖康の変に関する始末が付記されている。谷秦山はこの部分について、これは謝枋得に関係することではないことを明言した上で、国と国との争いになったとき、弱い方の国では、民百姓の為だの何だのと理屈を言って敵国に降伏しようという輩が出てくるものだが、それは先祖に対する仇であり、国を亡ぼすまで戦わなければならない、と述べている。つまり、ここから先の部分では、靖康の変を題材として、敵国に対する安易な屈従が不可である所以が説かれている。

徽宗の御代、女真族の国である北方の金と不和が生じ、金は各所から宋に攻め込んできた。徽宗の次代・欽宗は金の脅威に対して逃げ腰の姿勢を採ろうとしたが、逃げるべきでないと主張する大臣の李綱は金と戦い、その勢いを押し止めていた。だが、欽宗は李綱を罷免し、土地や金銀を割譲し金と和睦をしてしまった。それを受けて金はいったん引き上げたものの、再び侵攻してきた。都はついに陥落し、欽宗は降伏したが、金は欽宗 の皇帝の地位を取り上げて庶民に落とし、妃ら三千人と共に拉致し北に帰っていった。

これに危機感を覚えた欽宗の弟・康王 は即位し、南宋の初代皇帝・高宗となった。高宗により大臣に任命された李綱は、内政を修め、外夷を攘うことを国家の根本方針とした。しかし、またも佞臣が金と講和するよう高宗に進言したため、李綱はその地位を追われることになってしまった。

《志士の名言:李綱編》 ◎「古語にいはく、願はくは諸君と国是 を定めん、と。靖康の間、ただそれ国是定まらずして今日の禍あるを致せば、則ち今日のまさに鑑むべき所のもの、靖康にあらずや。」
(古人の語に、願わくは諸君とともに国家の根本方針を定めようと思う、とありますが、靖康の際には、この根本方針が定まっておりませんでしたために今日の禍いを招くことになったのでありますれば、今日よく手本とすべきは、靖康の際ではないでしょうか。)

次回も引き続き謝枋得を輪読する。 〔愚泥〕

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