楠公崇敬の崇敬の歴史 ― 湊川神社で垣田宮司が講演〔4月21日〕

4月21日、湊川神社楠公会館で行われた神戸社会人大学・春期公開講座が開催された。神戸社会人大学学長の青木俊一郎氏による挨拶に引き続いて、湊川神社宮司・垣田宗彦氏が「楠公崇敬の歴史」と題して講演した。

御代がわりへの言及や兵庫県が新潟県に次いで神社数が多いことなどに触れた垣田氏は、大阪府下で楠木正成を大河ドラマで取り上げてもらうための動きがあるなど、楠公を見直す潮流があること紹介。

その一方、学生や若者の参拝者に案内をしても「楠公」という言葉を知らないことを前提に話さなければ成り立たない現状に憂慮の念を示した。その中で、本来は「反体制派の屈強な武士」という旨の意味であった「悪党」という言葉が一人歩きしていることに触れ、郷土の英雄に対する尊敬の念を育てることの難しさについて話された。また、楠公崇敬の念を広めようとすると、戦前に軍部が楠公精神を悪用した事を想起させるのか「戦前回帰!」との批判が上がるが、これに対しても「楠公への責任転嫁」だと反論された。

さらに、湊川の合戦の模様を詳細に語り、この時の苛烈な戦いぶりが後に足利方の『梅松論』でも絶賛される由来となり、これが幕末に爆発的な人気を呼ぶきっかけになったことを指摘した。そして、このように吉田松陰ら尊皇・勤王の士たちへ精神的なものが引き継がれた事実をもって「犬死」とのイメージを批判。また、楠公の「尊皇精神」を疑う向きに対しては、魂が六界を輪廻転生すると信じられていた当時、七度まで人界に転生しようとする決意を重視して、尊皇精神がなければこれと矛盾が生じると力説。

また、戦国時代になると北畠家に仕えた楠木正具や松永家に仕えた楠木正虎などの末裔が現れ、前者は合戦であいまみえ、後者は右筆として仕える形で、豊臣秀吉と関わりを持つことを紹介され、これをきっかけとして生じた崇敬心が、後に秀吉が太閤検地に際して楠公御墓域を免租地としたことと関連があるのではないかと推測。実際に、秀吉の軍師であった竹中半兵衛は戦の才能に長けていたことから、楠公の生まれ変わりと言われていた。

江戸時代に入ると、尼崎藩二代藩主の青山幸利が菩提寺を湊川神社北側に移すほど楠公に対して篤い崇敬の念を示したり、徳川光圀が楠公墓碑を建立し、表面を自身が、裏面を明の遺臣朱舜水が揮毫したりすることで、楠公崇敬が公認されることとなったと説明した。また、元禄期に『忠臣蔵』が爆発的な人気を誇った背景として、仇役である吉良上野介が足利家の子孫であるから赤穂浪士を楠公に擬える向きがあったことなど、庶民的な人気についても言及された。また、幕末の志士たちの精神的支柱となった楠公精神は小泉八雲や英国公使ハリーパークスら外国人の関心を集めたことも指摘。

最後に、最後に幕末から明治にかけて勤王藩主らの請願から湊川神社が鎮座されるまでの明治維新と楠社創建の歴史を解説した垣田氏は、そこに至るまでには国学者たちの活躍があり、それら多くの学派を楠公崇敬精神が全て包括している重要性を説いた。〔三浦充喜〕

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