「皇太子」とはいかなる御存在か 「皇嗣」との相違/金子宗徳

令和2年4月に行われる「立皇嗣の礼」に関連して、月刊国体文化2月号より、金子宗徳編集長による『「皇太子」とは如何なる御存在か』が連載されている(全3回)。その第1回目の記事前半を無料公開する。

皇室典範における「皇太子」と「皇嗣」

来たる4月19日、文仁親王殿下におかれては宮中で「立皇嗣の礼」に臨まれる。これは殿下が皇嗣となられたことを広く国民に明らかにする儀式であり、現行憲法の定める天皇の国事行為として行われる。

これは、かつて上皇陛下や今上陛下も臨まれた「立太子の礼」に相当するものだ。譲位を定めた皇室典範特例法第5条には「皇嗣となった皇族に関しては、皇室典範に定める事項については、皇太子の例による」と定められている。

しかしながら、「皇太子」と「皇嗣」とは同質の御存在ではない。それは、皇室典範の規定を見れば明らかである。

第4条 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。
第8条 皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という。

同様の規定は、明治皇室典範にも存在する。

第10条 天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク
第15条 儲嗣タル皇子ヲ皇太子トス皇太子在ラサルトキハ儲嗣夕ル皇孫ヲ皇太孫トス

これらの規定によれば、「皇嗣」とは皇位の継承順位が第1位の皇族であり、そのうち「皇子」すなはち当代の御子である方を「皇太子」、「皇孫」すなわち当代の御孫である方を「皇太孫」と特に称し奉る。一方、「皇嗣」であっても当代の皇子でない方は「皇太子」とはならない。

皇位を直系で継承する「皇太子」および「皇太孫」は、幾つかの点で他の皇族と区別されている。

第一に、 如何なる理由があらうとも皇籍を離脱することができない点〔第11条2項〕。

第二に、他の皇族においては20歳とされる成年年齢が18歳とされる点〔第22条〕―この点については、一般国民における 成年年齢が18歳に引き下げられることとなった今日、規定を改める必要があろう。

なお、これら二点については、前述の特例法第5条により文仁親王殿下に対しても適用されており、宮内庁に「東宮職」に相当する「皇嗣職」が設置された。

ただ、宮内庁ウェブサイトを見ると、「お出ましに関する用語」において、「皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が外出されること」を「行啓」、「天皇・皇后・皇太后・皇太子・皇太子以外の皇族方が外出されること」を「お成り」と区別した上で、同ウェブサイトの「秋篠宮家のご日程」には「お成り」と記載されており、「皇太子」と「皇嗣」は厳密に区別されている。

明治以降、「皇太子」ならざる「皇嗣」が在します状況は二度あった。

一度目は、昭和天皇の御代に弟君の秩父宮雍仁親王が「皇嗣」とされた事例。これは、昭和8年〔1933〕12月23日に明仁親王(現在の上皇陛下)が御生誕になって新たな「皇嗣」となられたことにより解消された。

そして、二度目が今回の事例である。

「皇太子」の淵源

それでは、明治以前は如何であったろうか。

明治以前においては、「皇嗣」と「皇太子」との明確な区別はなかった。また、「皇太子」の異称として「東宮」・「春宮」・「青宮」・「儲皇」・「儲弐」・「儲宮」が、和訓としては「ヒツギノミコ」・「ミコノミヤ」・「マウケノミヤ」・「ハルノミヤ」などが用いられていた〔『皇室制度史料 儀制 立太子一』1頁〕けれども、その場合も当代の皇子に限らない。

そもそも、「皇太子」という観念は支那から移入されたものだ。同地では、古来より、天子や諸王侯の後継予定者を「世子」や「太子」と称していた。

その後、 秦代に「皇帝」の号が成立し、その後、紀元前202年に漢の「皇帝」となった劉邦(高祖)が、その子・ 劉盈(後の恵帝)に「皇太子」の称号が与えたのが初例である。以後、歴代の皇帝により「皇太子」が立てられるようになった〔前掲2頁〕。

『日本書紀』には、神武天皇42年の記事として、神武天皇が神渟名川耳尊(後の綏靖天皇)を「皇太子」と為したという記述が見られる。ただ、これは西暦に換算すると紀元前619年にあたり、劉邦の即位より遥か以前のこととなるため、史実とは云えぬだろう。

なお、『日本書紀』によれば、神渟名川耳尊は神武天皇の第三皇子(母は皇后の媛蹈鞴五十鈴媛)で、異母兄として手研耳命、同母兄として神八井耳命が居られた――『古事記』によれば、同母兄として神八井耳命の上に彦八井耳命が居られたという。

ここで着目すべきは、複数の嫡男から末子が「皇太子」に定められた点である。これは、原始社会における「末子継承」の風習を反映した記述と思われる。

神武天皇から成務天皇までは直系により皇位が継承されたものの、成務天皇には皇子が居られず、御兄・ 日本武尊の御子である足仲彦尊(後の仲哀天皇)を「皇太子」に定められた。

その仲哀天皇は九州への親征中に崩御される。これにより天皇は不在となるが、身重の神功皇后が摂政として九州を平定し、さらには新羅を征伐された。

帰国後、神功皇后は誉田別尊(後の応神天皇)を出産される。これに対して誉田別尊の異母兄は皇位を窺うも、神功皇后に討伐される。その後、神功皇后は誉田別尊を「皇太子」と定め、崩御されるまで摂政の地位にあられ、その間、天皇の御位は空位であった。

応神天皇の皇后は仲姫命で、その所生に大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)が居られたけれども、『日本書紀』によれば、応神天皇は異母弟の菟道稚郎子を「嗣」とされた。

けれども、百済より帰化した王仁に儒教を学んだ郎子は「長幼の序」を重んじて即位されず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合われる。そして、懊悩された郎子が自裁され、遂に大鷦鷯尊が皇位を継承されたと伝えられる。

これは、従来の「末子継承」から「長子継承」への移行を象徴する記述と云えよう。

(続きは国体文化2月号〜4月号にてお読みください)

金子宗德(かねこ・むねのり)/月刊「国体文化」編集長、里見日本文化学研究所所長、亜細亜大学非常勤講師。

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