【明治の英傑たち】伊藤博文(2)日本独自の民主主義を生み出した

明治22年に発布された明治憲法によって、今日につながる日本の基本的国制が定められた。

第1に、日本の主権が天皇に帰属すること、第2に、日本を法治国家とすること、そして第3に、臣民、すなわち国民を代表する立法機関としての議会を設置することである。

江戸時代の日本は多くの藩に分かれ、武士や農民の忠誠や帰属意識は個々の大名家に向けられていた。

明治4年に廃藩置県が行われ、ようやく統一的政体が実現したものの、その後、西南戦争や自由民権運動を引き起こすなど、実際の政府は、薩長出身の政治家が軍事力や警察力を占有することによって維持されていた。

「日本国民」の誕生

そうした状況に対して明治憲法は、日本人が身分や出身地域を超越して単一の国民を構成することを確認し、さらに国民の代表機関が立法作業に携わり、君主もまた、法に則って統治することを規定した。

明治憲法はそれによって、国民の統一的な法治国家意識を定着させようとしたのである。

明治憲法は、国民の権利や義務が法律によって定められることを繰り返し明記している。今日の中等、高等教育においてこれらは、明治憲法における人権概念の未熟さによるものとして説明されている。しかし、これは誤りである。

憲法が制定されるまでの法令は、法律というよりはむしろ、政府の出す命令や行政措置に過ぎなかった。近代的統一国家の建設当初、そうした一方的措置は、当面の統治の安定化や近代化推進のために必要と考えられていた。

しかし、そのような統治方法では、長期的な国内安定化や社会の近代化は実現できず、国際的信頼を得ることもできなかった。

そこで憲法によって、国民の権利や自由の範囲が法律によって定められることを明示したのである。これは、近代日本における国民的な遵法意識形成の重要な出発点となった。

欧米、特に議会政治の本場たる英米における議会は、単なる立法機関という以上に、国民の代表による合意形成の場としての性格が強い。

歴史的に欧米社会は、地域的にも階層的にも分節化され、しかもそれら個々の独立性、排他性が強かったため、議会とは、そうした多様な地域や社会的結合体から選出される代表が、自らの権利を守りつつ、同時に全体的な意思を決定するための機関として発達した。

そのため、一般に欧米社会では、不合理でも法律に従う義務があるといった感覚は形成されず、逆に参政権の行使こそが国民の義務であると意識されるようになった。

伊藤の場合、明治憲法で開設される議会を、欧米のような国内の分裂を前提とする合意形成機関としては捉えず、あくまで君主の立法権を国民の代表によって代理執行する機関として位置づけた。

それによって、忠義や孝行といった伝統的な社会倫理を基礎として、国民に近代的な遵法精神を形成していくことに成功したのである。

しかしその一方で、日本におけるそうした法観念は、たとえば国際法をめぐり、それを自らの権利を保護するための手段として利用する欧米諸国と、あくまで国際法に対する遵守義務を重視する日本という、明治期から今日に至る国際感覚の相違を生み出すことにもなった。

日本独自の民主主義

同様に、明治憲法によって始まる国会は、欧米とは異なる、日本独自の民主主義、法治国家の形成を進める上で決定的な役割を果たした。

当時、参政権には納税資格が付されていたが、これは当時の農村における納税体系に基づくものであり、今日のような大衆社会の中での富裕者優遇とは性質が異なる。

すなわち、当時の農村においては、江戸時代の農村自治の伝統を引き継ぎ、地主層が納税義務と共に、村落の公益、共益事業の責任を負っていた。その一方で、土地を所有しない小作人は地租の納税義務を負わなかった。

そうした状況下、国会議員とは、地域における責任者の互選によって選出されることとなっていた。

国会議員選挙は、そうした地域責任者に国政に対する責任の一端を担わせようとするものであり、しかも、そうした資格を満たした国民に、対等の、その意味では民主的な政治活動の権利を認めたのである。

戦争を求める議会

憲法の制定により、国会が開設されたが、議会運営の一定の慣習が形成されるまでは、政府と議会の対立によって予算が成立せず、国政の運営に重大な支障が生じた場合、憲法停止を引き起こしかねない危険が常に存在していた。

実際、伊藤が2度目の首相を務めていた明治26年から翌年にかけて、条約改正問題で政府と議会は全面対立し、衆議院は両度の停会の末、12月に解散され、5月に再召集されたものの内閣弾劾上奏案を可決したため、翌月には再度解散されるという事態になっていた。

日清戦争が勃発したのは、議会再解散中の七月、憲政最大の危機を迎えている最中のことであった。

当時、議会は、伊藤内閣の締結しようとしているイギリスとの通商条約が依然として不平等な規定を含んでいるのではないかと懸念し、さらに朝鮮問題をめぐって清朝との開戦を求めていた。

伊藤は本来、清朝との対立に反対していたが、陸奥宗光外相が開戦に積極的であったことと、何より憲法を守り、条約改正を実現するため、清朝との戦争を認めざるを得なくなったのである。

日清戦争は朝鮮の内政改革問題をめぐって勃発したが、そもそも明治14年の政変後の1880年代における日本の朝鮮政策は、清朝との関係を優先し、朝鮮を建前としては独立国として扱いながら、実質的に朝鮮半島における清朝の政治的優位を黙認するというものであった。

そのため、朝鮮の近代化のために日本の協力を得ようとする朝鮮内の動きに対し、伊藤は一貫して冷淡な対応しか見せなかった。それは、当時の日本が、憲法の制定などの国内改革に取り組む一方で、厳しい財政難に直面していたからである。

伊藤は、朝鮮を独立国として扱いながら、朝鮮における清朝の実質的優位を認めることで、日本の外交的および軍事的な負担を軽減しつつ、同時に朝鮮半島にイギリスやロシアの勢力が浸透することを牽制しようとした。

そうした中で朝鮮の親日派を支援することは、清朝との対立を引き起こし、不要な負担を日本が負うことになるだけであった。

ところが、西南戦争後に昂揚した自由民権運動は、藩閥による国政の占有を批判し、議会の開設を通じた政治参加を求める一方で、欧米列強に対する日本の対等の地位を確立するため、不平等条約の完全撤廃を主張し、さらには朝鮮半島における同種の改革運動、すなわち旧体制的な支配階層に代わり、朝鮮の近代化と清朝からの完全独立を目指す勢力に共感し、支援を与えていた。

憲法の危機

第二次伊藤内閣が、条約改正問題と朝鮮問題で議会と全面対立したのは、こうした経緯があったからである。

明治二十七年三月、朝鮮半島で大規模な農民反乱が勃発すると、第二次伊藤内閣は清朝の出兵通知を受けて、出兵に踏み切ったが、伊藤は清朝との開戦を想定していなかった。

とはいえ、清朝との関係安定化にとって、朝鮮半島の政情不安は好ましくなかったことから、日清共同の朝鮮内政改革を提案したのである。

それは、日清関係における長期的な不安材料を取り除くため、1880年代の朝鮮政策を部分的に修正したものであったが、結果的に、清朝との対立を顕在化させて開戦に持ち込もうとする陸奥外相に利用される形となった。

伊藤にとって、清朝との戦争を避けようとすれば、憲法停止か、それに匹敵する議会への強圧措置が必要であった。伊藤は、清朝が内政改革案に同調しない中、憲法を維持し、条約改正を実現するため、条約改正を強行する一方で、議会の主張していた清朝との開戦を決意したのである。

日清戦争の開戦、勝利を受けて、伊藤内閣は議会第一党の自由党と協力関係を確立した。

伊藤と自由党の関係は日清戦争以前にさかのぼるが、すでに政府にとって、議会の安定運営のためには、政党との協力が避けられなくなっていた。

しかし、利己的、党派的行動ばかりを繰り返す政党との協力は、政党側の猟官活動を助長するなど、新たな問題を引き起こした。

そのため伊藤は、明治33(1900)年、旧自由党を母胎として立憲政友会を創設する。伊藤は、政府と責任を共有できる政党を創設、育成することによって、憲政の安定と憲法の定着を図ろうとした。

つまり伊藤は、日本における憲政を成功させるため、憲法制定時には全く想定していなかった政治的決断を下すことになったのである。政友会総裁は、伊藤の後、西園寺公望を経て原敬へと継承され、日本における最初の本格的政党内閣が実現することとなる。

(つづく)

宮田昌明(みやた・まさあき)/昭和46年石川県生まれ。京都大学文学部史学科卒。京都大学博士(文学)。現在、帝塚山大学非常勤講師、一燈園資料館「香倉院」(一般財団法人懺悔奉仕光泉林付属)勤務、里見日本文化学研究所客員研究員。

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