【明治の英傑たち】西郷隆盛(3)維新の立役者から逆賊に

命も要らず、名も要らず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして國家の大業を成し得られぬなり。去れ共、个様(かよう)な人は、凡俗の眼には視られぬぞ。(『遺訓』)

官を辞した西郷は、鹿児島に隠棲する。

明治政府が維新の大義から外れつつあることに憤りながらも、西郷は軽挙を慎んだ。そこには、当時の政体を巡る複雑な問題が絡んでいたからだろう。

「天機」を待ち続けた西郷

葦津珍彦は『永遠の維新者』の中で次のように論じている。

 徳川幕府は、天皇から「委任」をうけた政府として、天皇と区別さるべき一つの明らかな独自の責任と権限とを有する存在だった。また憲法制定以後の「内閣」は、憲法によってあきらかに天皇無答責の原則を明確にした責任内閣制を確立するにいたった。この幕府と責任内閣との中間的過渡期の王政復古、太政官時代では、その実情は、かの有名な民撰議員設立建白書にいはれてゐるやうに「有司専制」の政府ともいふべき姿となってゐたが、理義の上からいふと、全ての政治の決定が天皇の「親裁」であり、「御沙汰」となってゐる。
有司専制時代は「万機公論に決す」との目標をかかげながらも、いまだ議会は開設されてゐない。すべての諸政策、諸法令は、事実は岩倉、大久保の立案ではあっても、その輔翼責任をあきらかにしないで、すべてを「親政」「御沙汰」としての形で実施してゐる時代なのである。政権を放伐するのだといふことの理義をあきらかにするのに、もっともむつかしい政体上の条件があつた。

もし、正面から弾劾したならば、自身が「天皇を中心とする道義国家の建設」という維新の理想を裏切ってしまう。西郷は、ただひたすらに「『天機』を待」ち続けた(葦津前掲書)。

西郷暗殺計画

だが、西郷に同調して帰郷した薩摩隼人たち――彼らは《私学校党》とも呼ばれた――の血気盛んな様子は明治政府首脳部の警戒感を煽り、大久保らは先手を打って、武器や弾薬を鹿児島県内の火薬庫から撤収する。

また、巡査を密偵として鹿児島に送り込んだ。

《私学校党》からすれば、それは挑発にしか見えなかった。彼らは火薬庫を襲撃し、密偵を捕縛して西郷暗殺計画を自白させる。

二つの事件に関する一報を聞いた西郷の胸中は複雑だったろう。

如何なる理由があらうとも、火薬庫襲撃は国法に反する行為であり、「これで天の機は失はれ」た。

政府の犯罪を詰問する、蹶起

しかしながら、大久保らが自らを暗殺しようとした事実は「政府側の犯罪として決定的に詰問するにたる」ものであり、遂に西郷は蹶起の決意を固める(葦津前掲書)。

明治10(1877)年2月、「新政厚徳」の旗を掲げた《私学校党》が東京に向けて進軍を開始し、熊本近郊の川尻で政府軍と激突した。

客観的に見て、西郷軍――《私学校党》に加へ九州各地から二人の旧庄内藩士を含む義勇兵も参加した――が勝利する可能性は薄かったと云わざるを得ない。

長崎を占領して軍艦を奪い、大阪や東京に突入するなり、せめて九州最大の都市である福岡を先に制圧するなりしたなら、何らかの展望が開けたろうが、西郷は熊本城を包囲するという戦術を選んだ。

最後の謎

正直云って、この時点の西郷が何を考えていたか分からない。「始末に困る人」を賞賛した西郷は、軍事的・政治的勝利とは違う何かを目指していたのかもしれぬ。

結果として熊本城を落とせず、田原坂の戦いに敗れた――なお、前述の庄内藩士は、この戦いで戦死している――西郷軍は、間道を辿って鹿児島に帰り着く。

その後も抵抗を続けたが、明治10(1877)年9月24日、西郷は城山で自刃して49年の生涯を閉じた。

明治維新の立役者であり、明治国家の理想を体現した西郷が、なぜ「逆賊」として討伐されねばならなかったのか。この点は、今後とも考え続けたい。

(了)

金子宗德(かねこ・むねのり)里見日本文化学研究所所長/亜細亜大学非常勤講師

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