【明治の英傑たち】江藤新平(1)変革者を育てた教育とは

江藤新平は天保5(1834)年生まれ、肥後国佐賀郡八戸村の人。幼名は恒太郎・又蔵と言い、成人して平胤雄と名乗った。号は南白。幕末・維新の変革期を生き、近代日本の基礎を創った人物のひとりである。

江藤について、いわゆる「佐賀の乱」で刑死したことを除けば、その多くを知る者は少ないであろう。わずか40年余りの江藤の生涯は、皮肉な廻り合わせに満ちている。

江藤は東京遷都、陸・海軍省の創設を提唱し、警察制度を整え、国民皆学を主導し、議院創設と三権分立による国家の建設を目指した。とくに明治初期の司法制度は、ほとんど江藤一人が作り上げたと言ってよい。

「唯皇天后土の我が心を知るあるのみ」

このように数々の実績を挙げながらも、最後は政敵となった大久保利通によって追い詰められ、江藤が自ら創設した手配制度によって捕縛され、正当な裁判手続きを受けることなく、自らが禁じたはずの梟首という刑に処されたのである。

勤皇家であり、明治期髄一の内政家であった江藤は自らの心情を「皇天后土(天を治める神と地を支配する神)」だけが知っている、と三度唱えて首を落とされた。

江藤の生涯には今も多くの謎が残されているが、本稿ではこれまで明らかとなった史実を紹介しながら、変革者・江藤の残した事跡を辿ってみたい。

海外情報の摂取

尊王の志士として江藤家は肥前佐賀藩の鍋島家に仕える手明鑓(てあきやり)であった。手明鑓とは佐賀藩独自の身分で、侍と徒士の中間にあたる下級士族である。

新平の父・胤光は郡目付の役にあったが、剛直豪放で酒を好んで免職となり、妻浅子の実家の力を借りて寺子屋を開くが、そこでも浄瑠璃や囲碁ばかりを教えて非難を受けた。

父に代わって寺子屋で漢学を教えたのは浅子であり、幼い新平もこの母に四書五経を教えられた。 

父の復職と母の助力により、新平は十二歳で弘道館に入学した。弘道館での教育は、江藤のみならず、大隈重信・副島種臣・大木喬任ら佐賀藩の志士に多大な影響を与えた。

佐賀藩は長崎防衛を任務とする関係から、莫大な費用と軍事負担を甘受せざるを得ず、さらに文化5(1808)年のフェートン号事件では、幕府から警備の責任を問われることになった。

そこで藩主・鍋島直正は蘭学を奨励し、特に火術を中心とする軍事技術の導入を試みて、嘉永3(1850)年には日本初の反射炉を築いて鉄製洋式砲の製造に着手した。

藩の推進する近代化政策のなかで、下級士族の新平も近代技術や海外情報と接触する機会を得たのである。

尊皇の志士として

佐賀藩の志士たちにとって、さらに大きな存在であったのは弘道館講師の枝吉神陽(えだよし・しんよう)である。

神陽は父・種影の教えを継いで「日本一君論」に基づく尊王論を高唱し、実弟副島種臣をはじめ、大隈・江藤ら多くの志士に勤皇の精神を授けた。

弘道館の主流はあくまで朱子学であり、古典の研究を重視する枝吉の史学派は傍流であったが、従来の思想に飽き足らない書生たちから強い支持を得た。

反射炉の完成した同じ年の嘉永3年、神陽らは「義祭同盟」を結成する。これは古文書調査のなかで神陽が偶然発見した大楠公の尊像を祀るという趣旨で、藩主直正の内命を奉じて楠公像を龍造寺八幡宮に移祀し、神事を執り行うものであった。

神陽の実践活動は佐賀藩内に尊王の精神を広く受け入れさせ、江藤ら若き志士の思想の根幹を形作るものとなった。

文久2(1862)年、脱藩して上京する江藤新平が藩に宛て記した書には、次のようにある。

鎖国の儀は幕府初代の建議にて、皇代盛時の典型にてはこれ無く、奈良の朝以前は皇徳の四夷に及ばざるをこそ、宸慮を労せられ候御事の由。因て唐国・三韓等の諸邦も皇徳に仰化し奉り候ほどに候へば、鎖国と申すは皇国の御国体にてこれ無き事、燦然明白に仕り居り候。

皇国の威光は中国・朝鮮も仰ぎ奉るほどであるから、鎖国の法などは「御国体」でないことは明らかである。このように説いて幕末の京に赴いた江藤は、尊攘派公家の姉小路公知を介して、密奏を企てる。

この一事によって江藤は藩より捕縛の令を下され、佐賀で永蟄居の処分を受けた。

このため江藤は幕末の動乱に直接は関与していない。だがわずか2ヶ月の在京中、彼は他藩の志士と交流を深めていた。

『木戸孝允日記』に言う。

江藤は肥前藩、旧来尊王の士也。壬戌歳(文久2年)志を起て脱藩し、ひそかに余を尋ねて京師に来る。よって余、山口繁次郎の宅に潜居せしむ。爾後の春、一左右あり。しかるにまた今春(明治元年)再会す。当時知己の一人物なり。

維新変革にともなって蟄居を解かれた江藤は、藩主の座を退いた直正らと共に江戸にあって民政に携わり、東京遷都の建議などに尽力していた。

木戸との再会も、そのころである。そして明治2(1869)年10月、江藤は木戸の引き立てによって維新政府に登用される。国政のエキスパートとしての江藤の真骨頂は、ここから発揮されるのである。

(つづく)

小寺只一/里見日本文化学研究所客員研究員

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