【明治の英傑たち】伊藤博文(1)なぜ憲法制定の前に内閣制度を作ったのか

伊藤博文は、大日本帝国憲法(明治憲法)の起草に当たり、初代を含む四度の首相を務めた、明治中後期における最も重要な政治家である。

天保12(1841)年に生まれ、松下村塾に学び、幕末当初は尊皇攘夷運動に参加するが、文久3年にイギリスに密航し、帰国後は討幕運動に従事した。

大久保利通に重用される

明治維新後、兵庫県知事や工部大輔を務め、明治四年の岩倉使節団に参加して欧米を視察した。伊藤の身分出自は低かったが、以上の経緯から、政府内では大隈重信と共に外国通として評価され、明治六年政変の後、積極開化、富国強兵を進めようとする大久保利通の下で、重用されるようになった。

伊藤が明治政府の中心となるのは、大久保利通の暗殺後、伊藤が後任の内務卿に就任し、さらに明治14年に、大蔵卿として大久保死後の財政を担当していた大隈重信が失脚して以降のことである。

当時、大隈は政府内の最有力政治家として、政治、経済の近代化を早期に実現するため、国会の即時開設と外債の導入による産業化推進を図ろうとしていた。しかし、そうした大隈の独断的かつ拙速な姿勢は、伊藤を含めた政府内の反発を買い、大隈は政府を追われたのである。

近代憲法研究のため渡欧

伊藤は、大隈に代わる漸進的かつ着実な近代化を進めるため、明治15年よりプロイセンに渡り、憲法調査に当たった。とはいえ、伊藤がベルリン大学で接したのは、プロイセン憲法に関する狭義の解釈学であった。それは、伊藤の目的や関心に応えるものではなかった。伊藤は、プロイセン憲法の専門家になるために渡欧したわけではなかったからである。

しかし、そうした折り、伊藤はウィーンの日本公使館より、ロレンツ・フォン・シュタインというオーストリアの憲法学者を紹介される。シュタインは、条文解釈学に特化した法律学に疑念を持ち、法学者、特に憲法学者として、国家のあるべき姿、特に産業革命が進み、労働問題が発生する中での国家と社会の関係について関心を持っていた。

シュタインはさらに、ヨーロッパでジャポニスムと称されていた日本の芸術、文化作品にも造詣が深かった。

伊藤はそうしたシュタインに接することで、憲法を単なる法文としてでなく、日本独自の伝統や社会に適合した国家的枠組みや、国家の主要機能としての行政の役割を規定するものと捉える新たな認識を形成した。

帰国後の伊藤は、刑法や民法などの周辺法制、内閣官制の制定や、官僚育成制度としての大学改革などと合わせ、総合的国政改革の一環として憲法の起草に当たった。

初代首相に就任

明治18年、憲法の制定に先立って内閣官制が施行され、伊藤は初代内閣総理大臣に就任した。今日の日本国憲法は、内閣に関する詳細な条文を含んでいるが、明治憲法にそうした条文は存在しない。

内閣に関して明治憲法は、単に国務大臣が天皇を補弼、すなわち天皇の政務を代行し、天皇に対して責任を負うことを規定しているのみである。憲法の制定とは、日本の国制に対する大改革であり、同時に、不平等条約改正の前提となる国家の信用確立のための大事業であった。そのため、憲法の導入に失敗は許されなかった。

内閣官制が憲法の制定に先行したのも、行政機構の改革を先行実施することで、来るべき国会開設に備えようとしたのである。その意味で、日本における憲政の導入は、単なる法文の制定によって実現したわけではない。

憲法の条文自体は比較的簡素であったが、その制定には、事前の様々な制度改革や実験的措置を必要としており、憲法とはそうした措置の上に導入された、新国家建設の総括的な意味を持ったのである。

(つづく)

宮田昌明(みやた・まさあき)/昭和46年石川県生まれ。京都大学文学部史学科卒。京都大学博士(文学)。現在、帝塚山大学非常勤講師、一燈園資料館「香倉院」(一般財団法人懺悔奉仕光泉林付属)勤務、里見日本文化学研究所客員研究員。

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