【明治の英傑たち】伊藤博文(3)知られざる晩年の苦悩とは

しかし、こうした国内的展開の一方で、日清戦争の後、朝鮮半島にはロシアの勢力が浸透していた。

日清戦争により、朝鮮半島における清朝の勢力が後退した上に、李氏朝鮮、1898年以降は大韓帝国政府が、内部に様々な対立を抱えており、様々な勢力が日本やロシア、イギリス、アメリカといった外国勢力と提携することで、それぞれ自らの国内的地位を強化しようとしたからである。

そうした中で、ロシアの勢力拡大は著しかった。しかも、1899年の清朝における義和団事変の勃発によって、ロシアは満州に兵力を駐留させた。日本にすれば、ロシアが朝鮮半島に政治的影響力を拡大する一方で、背後の満州に軍事力を駐屯させるという事態になったのである。

朝鮮半島は日本の重荷だった

こうした中で伊藤は、日本の産業化を進めるため、あくまで外交的負担を軽減しようとした。そのため伊藤は、朝鮮半島に対する日本の勢力拡大を抑える代わりに、極東におけるロシアの勢力拡大を自制させようとする構想を立てる。

一般書では、日露戦争前の日本外交は満韓交換という概念で説明されるが、これは正確ではない。まず伊藤にとって、ロシアの満州権益を拡大させる一方で、朝鮮半島に日本の勢力を拡大しようとする選択はあり得なかった。

それは、日本の対外的負担を増加させる上に、ロシアの脅威を極東に呼び込むものであった。

とはいえ、ロシアの対応が不透明な中にあって、当時の桂太郎内閣は、日英同盟の締結に成功し、朝鮮半島に対するこれ以上のロシアの勢力拡大を抑止するため、朝鮮半島を含めた日本の国防を重視する方針をとった。

伊藤の構想が実現するかどうかは、何よりロシア側の対応次第であったが、最終的にロシア側は、日本との戦争を意図も予想もしないまま、強硬な姿勢を貫いた。そのため、明治37年2月、桂内閣はロシアとの開戦に踏み切った。

日露戦争の開戦、勝利によって、朝鮮半島は日本の国防にとって死活的な意味を持つこととなった。日露戦中、戦後の二度の日韓協約により、日本は大韓帝国の外交権を掌握し、伊藤は保護国となった韓国に初代統監として赴任する。

韓国併合に反対する

しかし、日露戦争後も韓国の内政は安定せず、しかも国内には依然として、欧米、特にアメリカの力を借りることで日本に対抗しようとする動きが存在していた。

韓国政府が自ら国内政治を安定させることができず、諸外国の勢力を朝鮮半島に引き入れようと画策する中、日本政府内では、将来的な韓国併合を不可避とする判断が大勢となった。

しかし、伊藤は、大韓帝国がそのような状態であればこそ、韓国の併合に反対した。伊藤にとって、韓国併合は欧米の反発を招きかねない上に、何より日本の負担を増加しかねなかったからである。

伊藤は韓国統監として、韓国の伝統的な統治階層と提携しながら内政改革を進め、韓国の統治を安定化することによって、逆に日本の韓国併合は不要になると考えた。

韓国の国内が安定化すれば、欧米の勢力が朝鮮半島に浸透する事態は回避され、それによって、日本の国防上における過大な負担は回避できる。

このように、伊藤の朝鮮政策は1880年代以降、その時々の情勢の中で、常に日本の対外的負担を軽減することを最優先として、推移、展開してきた。

とはいえ、伊藤が提携した韓国の伝統的統治階層は、皇帝やその他、多くの勢力と対立しており、そうした勢力は欧米に支援を求めたり、あるいは反乱を起こしたり、あるいは日韓併合運動を進めたりすることで、伊藤に抵抗した。

そのため、最終的に伊藤自身も、韓国併合を認めざるを得なくなり、韓国統監を辞任した。

伊藤は一貫して韓国併合に反対していたが、統監時代、一度だけ併合を容認したことがあった。それは日露戦争後、日露協商の締結交渉中、ロシアより、日本が満州におけるロシアの権利拡大を承認する代償として、ロシアが日本の韓国併合を承認するという提案を行った時である。

当時、伊藤は、外国と提携して日本に対抗しようとする韓国内の動きに警戒していた。そうした中でロシアが日本の韓国併合を承認するということは、韓国内の反日、反伊藤勢力に対し、その望みを絶つ効果が期待できたのである。

とはいえ、当時の日本にとって、満洲におけるロシアの権益拡大を容認することは、日英同盟に抵触するため、不可能であった。

近代的行政国家をつくろうとした

伊藤は、同じ長州出身の山県有朋とは異なり、自らの息のかかった関係者や自らが有能と考えた人材を官僚に就任させたり、要職に起用したりすることで、官僚機構の中に自己を中心とする派閥を形成することはなかった。

また、伊藤は民主主義などの原理的理念に従うよりも、既存の社会秩序の中で堅実な近代化を進めようとしており、そのため、大隈重信や自由民権運動などとむしろ対立することが多かった。

しかしその一方で、伊藤は、権力闘争としての政治活動よりも、近代的行政国家を確立するための政治活動を常に優先しており、そうした視点から独自の外交政策を展開し、明治天皇の最大の信任を得ていた。

伊藤は、そうした活動の一環として立憲政友会を結成したが、この決断は、明治政府内における伊藤の影響力をむしろ後退させ、その後の外交政策においても、朝鮮政策においても、伊藤の構想は挫折を余儀なくされる結果となった。

明治42年10月、伊藤はロシアとの交渉のため、ハルビンに到着したところを、朝鮮人によって暗殺された。晩年の伊藤は、その業績とは不釣り合いに政治的影響力を低下させており、伊藤の暗殺は、当時の政界にそれほどの混乱を引き起こさなかった。

とはいえ、明治期の政治、外交において、伊藤博文の果たした役割は決定的に大きかった。今日、明治期の日本に関する最新の研究成果は、一般国民にそれほど共有されているわけではない。明治期の日本を再評価するため、まずは伊藤博文に対する国民的理解が深まり、広がっていくことが望まれる。

(了)

宮田昌明(みやた・まさあき)/昭和46年石川県生まれ。京都大学文学部史学科卒。京都大学博士(文学)。現在、帝塚山大学非常勤講師、一燈園資料館「香倉院」(一般財団法人懺悔奉仕光泉林付属)勤務、里見日本文化学研究所客員研究員。


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