維新政府に加わった江藤は、すぐさま抜群の政策立案能力を見せる。
すでに版籍奉還を終えた政府は、次の内政改革の手を打ちあぐねていた。江藤はただちに国政に関する意見書を出し、兵備増強、民法制定、知藩事の東京招集、弾正台の廃止などを提議した。
政府内で特に江藤の力を頼りにしたのが、岩倉具視であった。岩倉は明治3(1870)年8月に「建国策」を書くが、これには江藤が岩倉に提出した答申書が影響を与えている。
江藤が説くのは、三権分立と上・下院の議会制度に基づく君主政体の実現、中央集権体制の推進、封建的身分制度の解消などである。
廃藩置県に先立って、こうした国家体制を早くも構想している先駆性は評価されねばなるまい。
そして10月には、江藤は大久保利通とともに「政治制度上申案」を示した。兵部省を陸軍・海軍局へ分離し、刑部省と弾正台を統合して司法台を置き、上下議院を設置するなどの提案のうち、前二者は間もなく実現している。
日本法制史上初の民法典
同じ年の6月、江藤は太政官制度局にあって民法典の編纂を手がけた。9月には局内に民法会議を設けて調査を行い、「民法決議」なる成案を得た。
これが日本法制史上にいう初の民法典案である。民法の制定は、江藤にとって「天下第一の急務」であった。君主と法の前に個人が平等となる社会を創出することこそ、列強に劣らぬ民力を育てるために不可欠な改革であった。
さらに江藤は、国家の法体系のなかで根幹となる「国法」=憲法の制定をいち早く訴え、11月には政府の中枢を集めた国法会議が開催された。
この試みが実を結ぶことはなかったが、わが国の憲法制定に向けた最も初期の活動として注目されるべきである。
全ての国民に教育を
明治4(1871)年になると、江藤は新設された文部省の事実上のトップとして「文部大輔」に任命された。
旧幕府から引き継いだ昌平坂学問所、洋学所、医学所などの教育機関は、国学・漢学・洋学派が争って混乱を極め、兵部省との管轄問題も引き起こしていた。
江藤はわずか17日間の在任期間に洋学派を中心とする人事構成を決定し、さらに文部省の職務は「全国人民の教育」であると宣言した。
高等教育のみならず、国民教育の向上に国家が責任を持つとした江藤の方針は、翌年の「学制」にあらわれる「国民皆学」の基礎となり、近代日本公教育の原則となったのである。
立法権の独立を目指す
続いて左院副議長に転出した江藤は、年来の主張であった議会制度の確立に向け、左院を事実上の議会とすることを計画した。
江藤の著した「左院章程案」には、持論である上下議院の設立を述べた上で、将来的には左院の議員を両議院の選挙によって選出することが提案されている。江藤の考える左院の役割は、政府と人民の要望を仲介する存在となることであった。
その上で全ての立法行為、および既存の法令は左院に示されなければならないとして、立法権を独立させ、左院への集中を図る内容となっている。
これは実現には至らなかったが、江藤の建議を受けて左院の権限は大きく拡大されることになった。
新政府へ出仕した江藤は、あらゆる課題に対して立て続けに建策を行い、改革を実現していった。明治初期の国家制度を整備するなかで、江藤の果たした役割が大きいことは右の事実だけでも明らかであろう。
だが江藤の残した事跡の中でも特に重要な意味をもつのが、司法制度の創設であった。ここに江藤の理念である三権分立の具現化された形があり、かつ彼が悲劇の最期を遂げる要因が込められているのである。
司法制度の創設と藩閥との対立
明治5(1872)年4月25日、江藤は初代司法卿に就任した。
岩倉・木戸・大久保ら維新政府の重鎮が日本を離れていた頃、江藤は出身藩を問わず有能な人材を集め、警察の一元化や手配制度の徹底、残酷刑や復讐の禁止などの諸法令を整えながら、持論である三権分立の確立に向けて、司法の独立を推進した。
5月22日、江藤は司法事務を制定して行政と裁判を分離し、裁判への政治干渉を排除するとともに、司法に携わる官員が守るべき誓約を定めて示した。
一、方正廉直ニシテ職掌ヲ奉ジ、民ノ司直タルベキコト。
一、律法ヲ遵守シ、人民ノ権利ヲ保護スベキコト。
一、聴訟断獄ノ事務ハ能ク其ノ事実ヲ尽クシ、稽滞冤枉ノ弊ナキヲ要スベキコト。
司法官は「民ノ司直」であり、「人民ノ権利ヲ保護」することに本義がある。決して政治のために、権力のために、裁判を曲げてはならない。
ここに江藤の求める司法の姿が明確に現れている。
その精神は、6月に起きたマリア=ルス号事件に早くも見出される。横浜に入港したペルー船から脱走した清国人労働者を人道的見地から保護し、さらにペルー側が日本の娼妓を人身売買の実例としたことを受けて、10月には娼妓解放令が出されるのである。
(つづく)
小寺只一/里見日本文化学研究所客員研究員