9月6日、第13回「尊皇討幕のバイブル、『靖献遺言』を読む会」を開催した。
今回も、前々回・前回に引き続き謝枋得の章。この章には北宋の滅亡のきっかけとなった靖康の変に関する始末が付記されているが、それを前回に引き続き輪読した。
金の圧力を受けた北宋では、李綱や宗沢らが金との対決路線を主導していたけれども、争いを避けようとする皇帝・欽宗によって罷免された。しかし、金は北宋の都を陥落させ、皇帝の地位を追われた欽宗は妃ら三千人と共に金へ連行された。
その後、欽宗の弟・康王が南宋の初代皇帝・高宗として即位した。李綱は大臣に任命された。李綱は内政を修め、外夷を攘うことを国家の根本方針とした。しかし、またも秦檜ら佞臣が金と講和するよう高宗に進言したため、李綱はその地位を追われ、秦檜が大臣に任命された。これに対して将軍・岳飛は抗議の上表を行ったが、秦檜によって謀殺された。
《志士の名言:宗沢編》
◎「我が国家、承平二おおいて百年、上下恬喜して日を度り、おほむね跡をおさめて逃避し、曲辱して恥ぢざるを以て、智とし勇とす。万一、慷慨論列するあれば、則ち耳をおほひて聴かず、別に佞説を造りて以て相浮動す。」
(わが宋国は太平が続くこと二百年。その結果、上も下もただ安楽のみに暮らして、やり損わないようにと逃げ隠れ、心をまげて辱めを受けてもそれを恥じない者を智者だの勇者だのといい、その間に一人でも慨然として論を立てる者がいると難しいことをいう男だと言ってそれを聞かないようして、その上、いい加減な説を言いふらして人々の心を動揺させている。)
次回も引き続き謝枋得を輪読する。〔愚泥〕