7月25日午後、千葉県浦安市内にて、第二回浦安日本塾が開講された。今回のテーマは楠木正成で、主催者である折本龍則氏(浦安市議会議員)から、その事跡と思想に関する解説がなされた。
正成の出自は明らかでない。「悪党」と呼ばれる(鎌倉幕府の支配に服さない)在地領主であったというが、自身は橘諸兄の後裔と称しており、近年は、北条得宗家の被官であった祖先の楠木四郎が駿河国入江荘楠木村から河内国に移り住んで本拠地としたのではないかとの説も有力だ。また、正成による神算鬼謀の代名詞とも言われている赤坂城や千早城での戦いについても、兵糧などを熊野山中の間道を通じたネットワーク抜きには考えられないという。
なお、後醍醐天皇による政治改革についてだが、歴史的な正統性という見地からすれば、「新儀」という『梅松論』の評価と重なる「建武の新政」ではなく、宇多・醍醐・朱雀の各天皇による親政の復興を目指したことを踏まえた「建武の中興」と称するべきではないかとも指摘された。ただ、北畠親房が「武士が領土を主張しても全国には六六国五九四郡しかないのだから、私利私欲の取り合いになる」と『神皇正統記』で指摘し、また、室町幕府も百年程度で応仁の乱に突入したことからして、足利の裏切りがなかったとしても「建武の中興」は長く持たなかったろう。
しかし、そうした状況においても、正成は討幕の勲功第一位にもかかわらず従五位下の河内・摂津の二か国で甘んじ、湊川の戦いに際して「京都でのゲリラ戦」という自らの主張が後醍醐天皇や貴族たちに受け入れられなかったにもかかわらず不平を洩らすこともなく、死を覚悟して足利方の大軍に立ち向かうことを決意し、子息の正行を故郷へ帰した(その後、正行は四条畷にて戦死する)。こうした「無私の尊皇心」に基づく行為は、徳川光圀や佐々宗淳による墓碑の建立や明治天皇の勅旨による湊川神社創建へと繋がり、現代に生きる我々を奮起させるものである、と折本氏は論じた。(田口仁)