人は群れる
ここまで述べてきたように、福澤は、様々な方向から「自立」の重要性を説いています。では、福澤は「個人主義者」かというと、そうではありません。
「人の性は群居を好み決して独歩孤立するを得ず」
人は一人では生きていけない、群れるのだ、とも言っているのです。
「凡そ世に学問といひ工業といひ政治といひ法律といふも、皆人間交際(じんかんこうさい)のためにするものにて、人間の交際あらざれば何れも不要のものたるべし」
学問・工業・政治・法律といった営みは、「人間(じんかん=世間のこと)交際」がなければ不用である、逆に言えば、「人間交際」がなければ学問をはじめとする営みは無用だ、ということです。
では、こうした営みが行われるのは何故でしょうか?
「凡そ何人にてもいささか身に所得あればこれに由って世の益をなさんと欲するは人情の常なり」
どんな人間でも、ある程度の収入を得て自らの生活が安定すれば、世の中に貢献しようと思うのが人間の本性ではないか、と福澤は考えています。
福澤は、自分が良ければ良いという「利己主義者」ではありません。
金になることをしなさい、そして身を立てなさい。個人が経済的に自立すれば、回り回って社会の役に立つのですよと言うだけでは、弱肉強食の世になりかねません。
自分の身を立てる力のある人は良いが、ない人はどうしたら良いのか。また、たとえ力があっても病気など何かのきっかけで失敗する可能性もあるが、そのときはどうしたら良いのか。
そうした問題を解決するのが、この「ある程度の収入を得て自らの生活が安定すれば、世の中に貢献しようと思うのが人間の本性ではないか」という考え方です。これは、仏教における「利他心」、すなわち「他者に慈悲を施すことによって自らも救われる」という考え方に相通ずるものです。
天賦の智徳
ここで、「智徳」を巡る話に繋がってくるのです。
かつて、福沢は「智恵」を「徳義」より重視しました。
「徳義など無意味だ」とまでは言いませんが、「徳義のドグマ化」を強調し、「智恵」に力点を置いていたことは確かです。
しかしながら、後年になって、どうも反省したようです。明治10年(1877)に西南戦争が勃発すると、新聞は色々なことを書きたて、その「情報」に人々(とりわけ若者たちが)は躍らされます。そうした大衆社会化の走りともいうべき情況に、福澤は違和感を抱いたようです。その違和感について考える中で、福澤は「徳義」の意味に改めて気付くのです。
明治14年(1881)、福澤は「天賦の智徳」という一文を執筆します。
「抑(そもそ)も今の士族の天賦に智徳の資を有して、明に他の種族に超越する所以のものは、一朝の偶然に非ず。数百年来、家々の教育に遺伝し、又この教育なるものも、必ずしも文字に在らずして、所謂家風に存するものにして、他種族の得て知るべからざる所のものあり」
士族が平民に比して秀でているのは何故か。それは、武士の生き方として各家庭に伝えられてきた道徳的な空気ではないのか、と福澤は説き起します。
「仮に今士族と平民と貧困の状、相同きものあらん」
ここに、二つの貧しい家庭があり、その一つは士族、もう一つは平民だとします。
「幼稚の子が戸外に遺を拾ふて家に帰り、其の父母にして之を𠮟る者と之を不問に附する者と孰れに在る可きや読者の容易に判断する所ならん」
各家庭の子供が、「ひもじいから」あるいは「金目のものだから」と、道端に落ちているものを拾って家に帰ってきたら、それぞれの両親が何と言うか比較してみましょうよ、と福澤は仮定します。
「賤民の賤しき者に至りては之を不問に附するのみならず又随て暗々裡に誉る者なきを期すべからず」
平民の家においては、𠮟らないどころか、『万引き家族』のように褒めるかもしれません。
では、士族の家においては、どうでしょうか。
「又一丁字(いっていじ)を知らざる士家の母が子を警(いまし)むるに其の主義高尚にして其の語気頴敏(えいびん)なる」
たとえ無学な母親であったとしても、「あなた武士の子でしょう、どんなに家が貧しくても、そんなみっともないことするんじゃありません」と厳しく叱責するに違いありません。
士族か平民かという身分の違いはさておき、他人の落としたものをネコババして、それを親も黙認するような家に育った子供は、長じてネコババするだけでなく、窃盗、さらには強盗へと発展する可能性があります。
「三つ子の魂百まで」とも言われる以上、家庭における教育、とりわけ「徳義」に関わる教育が重要だということです。
無限の欲望
また、この話は、際限のない「欲望」を制御できるのは「徳義」しかないという、古くからの常識を思い起こさせます。
「智恵」は「欲望」を制御しません。それどころか、現在日本のように「欲望」を煽り立てるために「智恵」が総動員されている側面もあります。
福澤も、こうした「智恵」と「欲望」の潜在的な共犯関係に気付き、「徳義」の再評価を試みたのではないでしょうか。
西郷隆盛の影響
「文明」と「徳義」との関わりで、触れておきたいのは西郷隆盛の「文明」に対する認識です。
西郷は、その遺訓において「文明とは道の普く行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言うには非ず。世人の唱うる所、何が文明やら、何が野蛮やらちっとも分からぬぞ」と述べています。
これは、「文明」を際限なき「欲望」と結びつけた『文明論の概略』における福澤の主張と真っ向から相反する議論です。
では、両者の関係は悪かったかといえば、そんなことはありません。西南戦争で戦死した西郷を追悼する「丁丑公論」という一文を記したほどでした。
瘠我慢の説
この関連で触れておきたいのは、「瘠我慢の説」という一文です。これは、旧幕臣の勝海舟や榎本武揚の出処進退を批判したものです。
幕府が政権を掌握しているときは幕府に仕え、明治維新によって新政府が成立すると新政府に仕え、挙句の果てには幕府に殉じた人々に対する追悼文を記すという彼らの出処進退について、容赦のない批判をしています。
福澤は、「智恵」だけ偏重する合理主義者、あるいは金儲けのみを重視する「功利主義者」ではなく、「徳義」を重んずる人物であったのです。
「士魂」を復活せよ
以上、色々と述べて参りましたけれども、これが福澤諭吉の全てではありません。他にも、その天皇論など論ずべき点はあるのですが、今回のテーマである「自立」を中心に、「知恵と徳義」に関する福澤の主張を概観しました。
福澤諭吉は、文明を「智徳の進歩」と定義しました。
その当初は、ドグマ化する可能性を孕む閉じた「徳義」よりも、「知識」や「情報」として開かれた「智恵」(知識)を重視してきましたが、その後、後者に振り回される情況に危機感を抱くようになり、それを乗り越えるべく、自分が育ってきた環境に目を向けたのです。
福澤その人もまた、武士の子でした。
彼は儒学者を嫌いましたが、お父さんは儒学者です。その影響で、本人も儒学の本は同時代人よりも多く読んでいます。だからこそ、武士の家風は彼の中で血肉と化しており、だからこそ、そこに「天賦の智徳」を見出したのです。
こうした血肉と化した精神を、渡辺利夫氏(拓殖大学学事顧問)は「士魂」=サムライの魂と呼んでいます。詳しくは、渡辺氏の「士魂─福澤諭吉の真実」(海竜社)を御一読頂きたいと思います。
敗戦後、士族という存在は制度として廃止されました。同時に、平民という存在も廃止されました。言うなれば、全員が平民になったわけですが、この「士魂」、別の言い方をすれば「『徳義』を守るという意識」は、私たち全員が持たねばならぬのではないでしょうか。
かつては、「士魂」を有するサムライが社会をリードしていた。だから、サムライならざる「平民」が「徳義」に反することをしても、それが社会全般を覆うことはなかった。けれども、そうしたサムライは居ないのです。
では、どうしたら良いのか。居ないから「仕方ないね」ではなく、私たち自身が少しでもサムライに近づく、人間というものは誘惑に弱いですが、少しでも「士魂」を持たねばならない。私は、そう思うのです。
真の自由とは何か
現代人は、「自立」イコール「他者に支配されぬこと」としてのみ捉えがちです。
とりわけ、戦後の日本社会の風潮はそうでした。
しかしながら、それは単なる「放縦」に過ぎず、今日のような家族の解体、さらには社会の混乱を招くに至りました。
このように共同体が崩壊しかかると、力ずくで共同体を束ねなおそうという動きが生じます。それは、ナチスのような「強権支配」への第一歩です。
結果として、「自立を求めたはずが、自立を否定される」ことになりかねません。
そうならぬためにも、私たちは、「士魂」を堅く持して社会に貢献していかねばならないのです。
そうした行動を重ねていくことが出来れば、本当の意味での「自立」が可能になるのではないかと、福澤諭吉の遺した言葉を振り返りつつ私は考えております。今回の講演をきっかけに、サムライを目指す者たちのネットワークが形成されることを祈念しつつ、私の拙い講演を終わりとさせて頂きたいと存じます。(了)
金子宗德(かねこ・むねのり)里見日本文化学研究所所長/亜細亜大学非常勤講師