天誅組と明治維新

天誅組最期の地にて

先がけて散りし丈夫眠る地に響む瀬音は今も変はらじ

宗徳

 ペリーの来航と国政の混乱

嘉永六年六月三日〔旧暦、以下同様〕(一八五三年七月八日)、ペリー率ゐるアメリカ合衆国東インド艦隊が相模国浦賀沖に来航し、開国を促すフィルモア大統領の親書を受け取るやう求めた。

当時、征夷大将軍は徳川家慶であつたが、病ひの床にあつた。そこで、徳川幕府は返答の猶予を求め、それを受け入れたペリーは一年後の再来航を約して日本を去る。けれども、その直後に家慶が死去する。四男の家定が将軍職を継承するも病弱だつたゝめ、阿部正弘(福山藩主)が幕政を主導した。従来、幕府は将軍を中心とする譜代大名(幕府成立以前からの徳川家重臣)により運営されてきたが、判断に迷つた阿部は親書の訳文を添へて朝廷に上奏する。また、阿部は徳川斉昭(水戸藩主)・松平慶永(福井藩主)・島津斉彬(薩摩藩主)ら譜代以外の大名にも諮問したが意見の一致を見なかつた。

家慶の死を香港で知つたペリーは、約半年後の嘉永七年一月十六日(一八五四年二月十三日)に再び来航して約束の履行を迫る。約一ヶ月にわたる協議の末、幕府は「開国」を決断し、同年三月三日(一八五四年三月三日)に下田および箱館の開港や領事の駐在などを定めた日米和親条約が締結される。

その後、来日したハリスは通商条約の締結を強硬に主張し、幕府においても条約締結を容認する空気が強まつた。阿部の死に伴つて主導権を掌握した開国派の堀田正睦(佐倉藩主)は、斉昭ら攘夷派を封じ込めるため孝明天皇に勅許を奏請すべく上洛する。しかし、中山忠能(権大納言)ら攘夷派公家が条約案の撤回を求めて抗議行動を展開し、孝明天皇も勅許不可の意向を示されたゝめ、やむなく堀田は江戸に戻つた。

この頃、家定の病状悪化に伴ひ、幕府内部では将軍の後継者を巡る争ひが激化してゐた。改革派の有力諸侯が斉昭の七男である徳川慶喜(一橋家当主)を推した(=一橋派)一方、守旧派の譜代大名や大奥は家定の従弟にあたる徳川慶福(紀伊藩主)を推し(=南紀派)、外交政策の対立と複雑に絡み合つて激しい権力闘争が展開された。

安政五年四月二十三日(一八五八年六月四日)、井伊直弼(彦根藩主)が大老に就任する。井伊は、勅許を得ぬまゝ同年六月十九日(一八五八年七月二十九日)に日米修好通商条約の調印に踏み切り、他の国とも相次いで同様の条約を結んだ。また、慶福を家定の後継と定めた。

幕府が独断で条約を調印したことに対して強い不満を懐かれた孝明天皇は、重臣たちに譲位の御意向を示される。その後、譲位の御意向は撤回されたものゝ、公武一体となつて攘夷を貫くべしとの密勅を徳川慶篤(水戸藩主、斉昭の長男)に下された。さらに、その写しが公家と縁故のある有力大名に送られたゝめ、井伊に対する批判の声は強まる一方であつた。

このやうな動きに対して、井伊は徹底的な弾圧で応じた。斉昭らに蟄居を命ずるだけでなく、橋本左内や吉田松陰など尊皇攘夷派の志士たちを切腹や斬罪に処す。世に云ふ「安政の大獄」である。

これに反発した一部の水戸脱藩浪士が、安政七年三月三日(一八六〇年三月二十四日)早朝、江戸城桜田門外にて井伊を暗殺した。家定の死により新しく将軍となつたばかりの慶福改め家茂は僅か十四歳、最高権力者である井伊の横死は幕府に大きな打撃を与へた。

 親征攘夷の動き

井伊に代はつて幕府の実質的中心となつた老中の安藤信正(平藩主)は、井伊の幕府専断路線を改めて公武合体路線(朝廷との宥和策)を採り、家茂の正室として孝明天皇の妹にあたる和宮(親子内親王)の降嫁を求めた。これに対し、孝明天皇は攘夷決行を条件として降嫁を勅許される。

かくて、皇室と徳川家は姻戚となつたが、幕府は攘夷に踏み切る気配を見せない。その一方、対外貿易に伴ふ物価高騰などを背景として尊皇攘夷の動きが生まれ、外国人や幕府要人に対する襲撃事件が発生した。

そんな折、鹿児島から藩主の実父である島津久光が上洛する。当時、京都には尊皇攘夷を目指して薩摩藩士をはじめ多くの志士が集結してをり、彼らは久光が孝明天皇を戴いて討幕のため挙兵することを期待してゐた。しかしながら、薩摩藩の実質的支配者として既得権益を有する久光にしてみれば、そんな行動に加担したところで何の利益もない。公武合体路線の中で自らの発言権を強化すべく、朝廷において幕政改革を主張した。さらには、志士たちの急進的な討幕論を憂慮されてゐた孝明天皇から鎮撫の内勅を受ける。そこで、久光は伏見・寺田屋に家臣を派遣し、京都所司代(幕府の治安維持機関)襲撃のために集結してゐた志士の説得に当たらせたが、決裂したゝめ武力で鎮圧した。

 

金子宗德(かねこ・むねのり)里見日本文化学研究所主任研究員

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