モンゴルという視点 ― 東都で昭和12年学会公開研究会〔2月22日〕

2月22日午後、ハロー会議室茅場町駅前で昭和12年学会主催の公開研究会が開催され、宮脇淳子氏(同会会長)が「昭和12年のモンゴルと徳王」と題して講演した。

モンゴルは、17~18世紀に独立を失い、満州人皇帝の臣下となる。この清朝時代には、モンゴルとチベット、回部(新疆)は藩部(はんぶ)と呼ばれ、清朝皇帝に臣属しながらも自治を許され、漢人の流入は禁止されていた。

日本において、モンゴルとの関係は、日露戦争の勝利が大きな要因となり始まった。日露戦争後の第三次日露協約の秘密協定にて、北京を南北に通る線の東(東部内蒙古)を日本、西はロシアの特殊権益地域と定めたのである。

その後、辛亥革命により清朝が滅亡、外蒙古はモンゴル人民共和国となる。一方、シリーンゴル(西部内蒙古)では、同地域の副盟長であった徳王が関東軍支援のもと西部内蒙古における自治運動を行うこととなる。日本は昭和7年(1932)に満洲国の建国を宣言しており、チャハル工作の拠点となった多倫や、百霊廟の特務機関を通じて、関東軍は徳王と連携し、西部内蒙古に進出していく。

昭和11年(1936)は、モンゴルと徳王にとって重要な年である。日本は「防共回路構想」を持ち、オナチに特務機関を設置する。陸軍中央部はチャハルでの内蒙工作を禁止していたが、関東軍はこれを無視し綏遠侵攻計画を進めた。しかし、敵対していた溥作義により百霊廟が占領され、田中隆吉参謀の命令による漢人謀略部隊の百霊廟奪還が失敗、同軍が反乱を起こし、特務機関員ら日本人29名が殺害される綏遠事件が起こった。

そして昭和12年(1937)7月に盧溝橋事件が勃発する。日本軍は10月中旬までに大同・綏遠・包頭一帯の蒙疆地域を軍事占領し、綏帰には徳王を副主席(のち主席)とした蒙古聯盟自治政府が成立した。徳王は蒙古の独立を究極の目標としていた。

同年8月に「中ソ不可侵条約」が締結され、モンゴル領土内にソビエト軍を急遽進駐させる。日本軍がモンゴルを経由してソ連への侵攻を計画していると考えたスターリンは、1939年までにモンゴル内の「日本協力者」と見なされた20,099人を粛正した。またソ連は、モンゴル人民革命軍の40%の指導者を抹殺、北モンゴルにあった771ヶ寺のうち615ヶ寺が廃墟となった。

昭和14年(1939)5月には、ノモンハン事件(ハルハ河戦争)が勃発し、8月20日のソ・モ連合軍の総攻撃により、日本軍が敗退する。同年8月には、日ソ不可侵条約が締結、第二次世界大戦が勃発。9月には徳王を主席とする蒙古聯合自治政府(後の蒙古自治邦政府)が樹立された。

昭和16年(1941)12月に大東亜戦争が始まる。1945年8月にソ連が対日宣戦を布告し、モンゴル人民共和国のソ連軍が南モンゴルのシリーンゴル盟に侵入。その後、モンゴルは対日宣戦布告をし、日本が敗戦に至って蒙古自治邦政府が崩壊した。

これまで見てきたように、モンゴルにおける「国境」という概念は日本人とは全く異なること、「モンゴル人」が意味する内容も時代によって異なる。そうしたモンゴルという視点を導入することによって、中国大陸や朝鮮半島と日本との関係史も、より立体的に描き出すことが可能となる。〔山田忠弘〕

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