毒餃子事件の「犯人」が捕まったという。
「なぜ、この時期に…」という疑念を拭い去ることが出来ない。2年も経っているのに、犯行に使われた注射針が発見されるというのも不自然だ。「犯人」が貧困地帯出身の臨時工ということも気になる。弱い立場の人間に罪を被せて、「真相」を覆い隠そうという魂胆ではないのか。 ― それにしても、マスコミの大半は中共側の発表を鵜呑みにして垂れ流すばかりである。「批判精神」を捨てたジャーナリストなど、一片の存在価値もない。
昨年(平成21年)10月に展転社から『シナ人とは何か』が上梓された。内田良平の著書『支那観』〔大正2(1913)年2月〕を通して、支那文明の本質を探ろうとする意欲的な試みだ。
『支那観』の中で、内田は支那社会を「読書社会(=政治社会)」・「遊民社会」・「農商工社会(=普通社会)」の3つに大別して、その全てを否定的に捉えている。これに対して、神田正種は、3つの区分を受け容れつつも「農工商社会」を「良民社会」と肯定的に規定し直した。田中秀雄氏は、「この大多数を占める『良民社会』を念頭に、王道主義を以って支那に臨もうとしたのが石原莞爾や山口重次、小澤開作の構想した『民族協和』論なのである」と指摘する。
だが、「政治社会」と「遊民社会」の排除は上手く行かず、社会の基本的な構造は何も変化していない。宮崎正弘氏は、「現代に当てはめるとすれば、『政治社会』は共産党エリートの支配層、『遊民社会』は遊牧民と農業従事者と落ちこぼれ。そして『普通社会』とは一般の人々。」と述べている。
中共には2度ほど行ったことがあるけれども、「良民」と「不良民」の落差が激しいという印象を抱いた。満鉄特急「あじあ」を牽引したSLを見ようとタクシーで瀋陽郊外の蒸気機関車館まで行った時のことだが、タクシーの運転手は場所を知らない。しかし、彼は非常に真面目で、何度も道を聞くなどして責任を果たしてくれた。また、撫順で乗ったタクシーの運転手も煙草を私にくれたりした。シートベルトの壊れた車で高速道路を疾走されたのには参ったが…。かと思えば、瀋陽のホテルでは両替した金から100元札を従業員に抜かれたりもした。
ならば、「不良民」だけ排除すればよいということになるけれども、厄介なことに「良民」と「不良民」との区別がつかないのだ。毒餃子事件の「犯人」にしても、スケープゴートにされた哀れな「良民」なのか実は落ちこぼれた「不良民」なのか判断に苦しむ。
ただ、現代の「政治社会」を構成する中共のエリートたちが「不良民」ということは紛れもない事実である。