未来小説「恋闕のシンギュラリティ」【07】悲恋の宮様

コホン、と恋子さんが小さく咳払いした。

「…ともかく、孝明天皇の密書を路上で奪っても無意味だと思います。途中で幕府側に奪われることを想定して、密書は複数のルートで送られた筈です」

「さすが、恋子さんね。確かに密勅の写しは攘夷派の公卿から諸藩にも渡っているから、水戸藩へ送られたものを途中で奪っても同じことかも知れない」

ここへきても美月さんは至って冷静に返す。しばし、座を沈黙が支配した。僕はこらえきれなくなって、恐る恐る手を挙げた。

「そもそも何故、孝明天皇はそんな、幕府を批判するような勅書を出したんでしょうか? しかも、幕府ではなく水戸藩に対して」

「さあ、それは謎よね。前水戸藩主の徳川斉昭が数年前に幕府の海防参与に任じられているから、それも関係してるのかも」

「そもそも、当時の朝廷が希望していたような攘夷って可能だったんですか? 倒幕後に成立した明治新政府も、結局は開国して富国強兵を目指すしかなかったわけですよね?」

「そう。だから、徳川政権が続いていたら後の日本がどうなるのかシミュレーションしたいのよ」

そうだった。愚問を発してしまい、恥ずかしい。

「ひょっとしたら…」

さっきまで威勢のあった恋子さんが慎重に発言する。

「…有栖川宮がキーマンかも」

「有栖川宮?」

僕と美月さんの声が揃った。

「清明さんの猫型ロボット、ちょっと借りていいですか? お名前はなんていうのかな?」

恋子さんがミッちゃんに話しかける。まずい。美月さんの名前をつけたのがバレる。

「あ、ミッちゃんです。どうぞどうぞ」

「ミッちゃん、戊午の密勅が出された前後10年の年表を投影して」

「はい、嘉永元年から明治元年までの国史年表を投影します」

そう言うとミッちゃんは前足を踏ん張り、目から光を放った。なんと空中に映像が浮かび上がり、そこに文字が並んでいる。こいつ、こんな機能もあったのか。猫がプロジェクター化している光景は、なかなかシュールである。

「ほら、ここを見て」

恋子さんの声を聞いて我に帰る。

「問題となった日米修好通商条約は安政5年6月に勅許なしで締結されていて、これを批判する密勅が同じ年の8月に出されているんだけど、問題はここ…」

と、恋子さんが年表の一部を指差す。そこには、

・3月12日 中堅公卿が条約案に抗議し、集団座り込み(廷臣八十八卿列参事件)
・3月13日 有栖川宮熾仁親王、条約批准不可の建白書提出
・3月20日 孝明天皇、勅許を求めて参内した老中・堀田正睦に条約不許可

と並んでいる。そして条約締結を挟んだ同年8月8日に、戊午の密勅が下されているのだ。

「有栖川宮熾仁親王って、たしか孝明天皇の妹・和宮との婚約を破棄させられた人よね。和宮を将軍家に降嫁して、公武合体を進めるために」

「はい。でもそれはこの後の安政7年です。それまでは約10年間、婚約状態でしたし、孝明天皇とも年齢が近いので、そうとう信頼関係があったのではないでしょうか」

「なるほど。孝明天皇が義理の弟に等しい熾仁親王の意見を重視して、条約締結を許さなかった、と」

「それだけではありません。ペリーが来航する前年の嘉永五年に、熾仁親王の妹・幟子女王が、水戸藩主徳川慶篤に降嫁しています。有栖川宮家からはこれ以前にも水戸藩主に降嫁した女王がいましたので、両家には独自のパイプがあったのではないでしょうか」

この女子高生、異様に皇室の歴史に詳しいぞ。何者なんだ…。

「当時の朝廷が有栖川宮家を通じて御三家の水戸藩と繋がっていて、条約締結を急ぐ幕府を牽制していた、か。面白い仮説ね。じゃあどうやって、密勅の下達を阻止する?」

「美月さん、この歴史シミュレーターは、外部要因として干渉するだけじゃなくて、実在の人物に成り代わることも可能ですよね?」

「うん、できるけど、仮想空間での滞在時間は3時間以内よ」

「3時間あれば充分です。やってみます」

   *

というわけで、僕と恋子さんは安政5年2月25日の歴史シミュレーターに入った。眼が覚めると、僕はひとり暗い和室に横たわっていた。しばらく頭が呆然としていたが、決められていた台詞をなんとかして絞り出す。

「た…誰か!」

やばい、声が裏返った。しかしすぐに「はい」と声が聞こえ、スーッと障子が開けられる。

「若宮八幡に参る。駕籠を」

あんまり喋るとボロがでるので、僕の台詞は以上。あとは無言のまま、お付きの人が僕の服を着付けしてくれた。直衣と呼ばれる、貴族の装束である。部屋に備え付けの小さな鏡を確認すると、意外にもサマになっている。しかし、顔が自分と違うのでなんだか気持ち悪い。今回は、有栖川宮熾仁親王として行動するためだ。

出発したのはおそらく深夜零時頃。碁盤の目状になった平坦な京の街をゆったりと揺られながら一時間ほど進むと、薪の火に照らされている鳥居の前で停まった。すでにもう1台の駕籠が来ていた。

従者に先導され、参道をゆっくり進む。慣れない木製の履物なので、油断すると転びそうだ。石畳にカコン、カコンとよく響く。

「これはこれは、宮様、この夜更けに急なお越しで」

提灯を持った白髭の神官が出迎えてくれた。ニコニコと、満面の笑みを浮かべている。ここの宮司は、熾仁親王の母方の祖父らしいので、この人物がそうかも知れない。とりあえず笑顔で会釈する。このあと起きることを考えると、心が痛い。

「和宮様が、本殿にお越しですぞ」

なぜか小声で、老神官が囁く。

「お待たせしました」

本殿に入ると、艶やかな紅色の小袖をまとった少女が一人神殿に向かって端座していた。

「早く、戸を閉めて」

振り返った皇女・和宮の顔をみて驚いた。年齢は12歳くらいの筈だから幼いのだが、容貌は恋子さんと瓜二つなのだ。少し焦りながらも、木戸を閉め、外から開けられないようにしっかりと閂を下ろす。

「ギリギリセーフね」

スクッと立ち上がった恋子さんが、僕の前にしずしずとにじり寄る。

「その顔は、和宮のものですか?」

「もちろん。そうじゃないとおかしいでしょう」

蝋燭の淡い灯りに照らされた恋子さんが、含み笑いをしながら応える。その時、地響きが聴こえたかと思うと本殿の壁がギシギシときしみ始め、床がグラグラと大きく揺れた。燭台が倒れる。

「キャっ」と恋子さんが僕に抱きつく。瞬く間に火が回る。反射的に「この人を守らないと」という思いが湧いて、必死に恋子さんを抱きすくめる。横顔を炎に照らされながら僕を見つめる、恋子さんのまっすぐな瞳が目に焼き付いたところで、記憶が飛んだ。

   *

「お疲れ様、大成功よ」

現実空間で目を覚ますと、美月さんが労ってくれた。

「恋子さんは?」

「先に帰ったわ。彼女は忙しいの」

安政5年2月26日の飛越地震を利用して、熾仁親王と和宮を歴史の表舞台から隠す、というアイデアは恋子さんによるものだ。越中・飛騨国境を震源とするマグニチュード7.0クラスの地震で、京都も震度5程度の揺れが生じた。

「火災が原因で大火傷を負い、それが元で数年後にお二方とも相次いで亡くなりました。あくまで仮想シミュレーションとはいえ、心が痛むわね」

「その後の歴史の流れは、どうなったんですか?」

「恋子さんの読み通りよ。戊午の密勅は出されず、安政の大獄は起きなかった。桜田門外の変もなくて、井伊直弼が大老の任期を10年伸ばし、明治時代はやってこなかった。その後のことは、明日のシミュレーターで確認して」

「有栖川宮が、それほどの重要人物だったってことですね」

「そう。それに和宮もね。史実で彼女が将軍家に降嫁したことは、むしろ倒幕を早めたのかも知れない」

「でも、どうして恋子さんはあんなに歴史に詳しいんでしょうか? この時代の歴史の授業は、相当マニアックとか?」

「彼女は特別よ。私の口からはそれ以上のことは言えません」

「そういえば、和宮の顔が恋子さんそっくりでした」

「私もモニタリングしてて驚いた! それにしてもあなたたち、良い雰囲気だしてたね。悲劇の恋人たちって感じ」

「ええっ、見られてたんですか?」

「あれ? 清明さん、顔が赤いよ。かわいい」

   *

翌日、僕は一人で西暦2019年のJ1時間軸に入った。恋子さんは所用で来られないとのことだ。例によって予備知識は与えられず「先入観を持たずに街の雰囲気を見てくるように」としか言われていないので、不安しかない。

気がつくと、僕は公園のベンチに横たわっていた。背中が痛い。時間は昼頃、見事な晴天だ。子供連れの白人家族が芝生で遊んでいる。まずは現在位置を確認するために、公園の入り口に向かった。

「Hakata Central Park」

なぜか英語の看板である。直訳すると博多中央公園。ということは現実世界の福岡市博多区あたりだろうか。

公園の周辺には高層ビルが立ち並んでいる。実際に僕が暮らしていた平成時代の福岡よりは発展しているように見える。公園を出て、周囲をそれとなく確認しながら歩道を進むと、微妙な違和感を覚えた。全ての車両が逆走しているのだ。

「あ、右側通行なのか」

思わず独り言を漏らす。どうやらこの世界では、日本も右側通行が採用されている。そう思って道路標示を見ると、全てアルファベットで表記されていることに気づいた。「止まれ」ではなく「STOP」になっている。道路だけではない。商業看板もことごとく英語表記だ。平成時代もアルファベット表記の看板が多かったが、この世界は明らかに英語メインになっている。そう思って信号待ちをしている人々を見やると、ほとんどが白人である。白人が団体観光とは珍しい。しかし誰も旅行鞄らしきものは持っていない。格好も、ラフなTシャツ、スーツ、ブレザーの学生服などバラバラだ。

信号が変わり、白人たちに続いて大通りを横断すると、前方に大型ビジョンが見える。外国のニュースを流しているようで、アナウンスも字幕も英語だ。何か事件があったのか、緊迫した様子で、路上に横転した乗用車が燃えている様子が映し出されている。横断歩道を渡り終えると、白人たちは別々の方向に歩き去った。僕は大型ビジョンの前に立ちつくしてニュースの続きを見た。早口で何と言っているかはわからなかったが、何度も「ジャップ」という単語を発していた。

   *

誰かに話を聞いて、この時代がどうなっているのかを確認せねばならない。しかし道ゆく人々のことごとくが白人で、どうも日本語が通じそうには思われなかった。僕はさらに人の多い場所に向かい、ひたすら日本人を探した。そしてようやく駅のトイレ前で見つけたのが、若い女性の清掃員だった。

「すみません、日本人の方ですよね?」

彼女は、驚いたような顔をして僕を見た。返事がない。日本人ではないのだろうか? やむなく下手な英語で尋ねる。

「キャン・ユー・スピーク・ジャパニーズ?」

「ウチは日本人たい」

若いのに、コテコテの博多弁だ。しかしホッとした。

「すみません、ここは福岡ですよね?」

「そうばってん、アンタなんね?」

「いや、旅行で来たんですが、いまの福岡がどうなっているのか良く知らなくて。どうしてこんなに白人が多いんでしょうか?」

「アンタ、スマグリンね? ウチに話しかけんどって! コップば呼ぶばい!」

「え、ス、スマグリン?」

清掃員の異常な剣幕で周囲が僕らに注目し始めた。僕がうろたえていると、警察官らしき男が走ってくるのが見えた。

(続く)







本山貴春(もとやま・たかはる)戦略PRプランナー。独立社PR,LLC代表。北朝鮮に拉致された日本人を救出する福岡の会副代表。福岡憂国忌世話人団体・福岡黎明社事務局長。大手CATV、NPO、ITベンチャーなどを経て起業。

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