インフルエンザによる休校は、結局1ヶ月間に及んだ。今日は久々の登校である。もっとも、休校の間も自宅でのオンライン授業は実施されていたので、あまり休んだ気はしない。
「おはよう! やっと部活も再開できるね」
教室に入ると、さっそくマイが話しかけてきた。
「うん、すっかり身体が鈍っちゃったよ」
マイと会話するのも、歴史VRのとき以来だ。満面の笑みを目の前にすると、何故だか少し照れ臭い。
「おーい、みんな席について。おはよう。元気にしてたかな?」
担任の古畑がボサッとした頭を掻きながら教室に入ってくると、ガヤガヤとしていたクラスメイトたちが席に戻って口々に挨拶する。
「ところでみんな、休みの間に流れたニュースで興味のあるものはあったか?」
再び教室が騒がしくなり、口々にアイドルのゴシップやアニメ映画の公開について声を上げる。その中で、マサルが挙手した。
「なんだマサル、言ってみろ」
「はい。博多港に北朝鮮拉致被害者の銅像が建ちました」
女子の誰かが「えー、そうなの?」とマサルの方を振り返る。
「そうだな。このニュースは次回の歴史VRに関係するのでみんなも知っておいて欲しい。今年は拉致被害者奪還15周年にあたる。そのことを記念して、2度と同じような悲劇を繰り返さないために銅像が建てられたんだ」
*
「私たちは、北朝鮮に拉致された日本人を救うために集まった、ボランティアのメンバーです。まもなく、2度目の日朝首脳会談が開催されます。皆さん、政府に対し、拉致被害者の早期救出を求める署名にご協力をお願いします!」
10数名の老若男女がクリップボードとペンを手に、通行人に対して呼びかけている。傍らには青地に白抜きで『北朝鮮に拉致された日本人の早期帰国を』と書かれた幟旗が数本、風に棚引いている。
「ここって本当に福岡なの? いまと比べて随分ビルの高さが低いよなあ」
ヨースケが軽口を叩く。
「たしかこの頃は空港が街中に近くて、建築物の高さ制限があったんだよ」
「えー、そうなんだ。さすがマサル! 詳しいね」
マサルのもっともらしい解説に、いちいちマイが感心している。僕らの時代からは40年以上も遡る、平成16年4月の福岡市中心部である。僕は、街の様子よりも署名活動自体が珍しく、その様子を注視していた。署名活動といえばインターネットで呼びかけるのが当然で、こういうやり方はいかにも非効率に見えた。あるいは、この時代はまだネットが普及していなかったのだろうか。さらには、署名を行うグループに対する通行人の反応の冷たさも気になった。署名用紙を差し出す女性に対して「うるさい!」などと悪態をつく中年男性も一人や二人ではない。
「ねえ、あれを見てよ。何か変じゃない?」
滅多に喋らないリュウが僕に小声で話しかけてきた。リュウの指差す方向を見ると、中年男性が自転車にまたがり、ビデオカメラを署名グループに向けてゆっくりと通り過ぎて行ったのだ。
「…なんで撮影してるんだろう」
「あ、あっちもだ」
今度は、マイが路線バスを指差す。見ると、中年女性がバスの座席からビデオカメラを、やはり署名グループに向けていた。
「呵呵呵呵。お主ら、よく気づいたのう」
いきなり隣でいつもの哄笑が響く。
「水戸黄門! 驚かすなよ。心臓に悪いなあ」
「むむっ。なんじゃムネキヨ。せっかく褒めてつかわしたのに、無礼者め」
「はいはい。ご無礼つかまつりました、御隠居さま。で、あのビデオカメラを構えた連中は何者で、何をしたいんですか?」
「うむ。お主らは、なんじゃと思うかの?」
「げ、質問に質問で返されたよ。その辺の教師よりたち悪いぜ」
「ヨースケや、聴こえておるぞ。儂の耳は地獄耳じゃぞい」
「ははっー。…うーんっと、あれかな、北朝鮮のスパイが監視に来たとか?」
「おお、ヨースケのわりにはなかなかよい線いっておるのお。ほぼ正解じゃ」
「わりにはって何だよ!」
水戸黄門とヨースケがコントのようなやりとりをする間も、署名グループは交互にマイクを構えて拉致問題を訴えている。今後は松葉杖をついた老人の番だった。
「われわれは、戦後の平和な時代にあって、100名以上とも言われる日本人同胞が、北朝鮮に連れ去られていたことを知りませんでした。しかし、平成14年の日朝首脳会談において、北朝鮮の独裁者・金正日は、日本人13名の拉致を、公式に認めたのであります! わたくしは、団塊世代の一人として、拉致被害者の皆さんに詫びねばなりません! 戦後日本の成長を支えたわれわれの世代こそが、もっと早く彼らの不在に気づくべきだったのであります!」
凄い迫力だった。これまでの弁士と違い、地の底から轟くような気迫があった。その証拠に、通行人の数名が足を止めて署名グループを凝視している。老人の演説は、その一帯にビンビンと響き渡っていた。
「真の敵は、この日本国内にこそおります! 今日もこの場で、われわれを威嚇するかのように、カメラを構えた人間が通り過ぎて行きました。このすぐ近くに朝鮮総連の拠点があり、北朝鮮の指令に従う在日朝鮮人が大勢おるのです。福岡県は毎年巨額の資金を、金正日礼讃教育を続ける朝鮮学校に支給しております。朝鮮学校に配られたカネは、北朝鮮本国に送金されているという情報もあるのです。このカネは、われわれが汗して納めた税金ではありませんか!」
ショックだった。この時代の日本は、自国民を拉致した敵国ともいうべき北朝鮮を支援していたのか。のちに戦火を交え、血を流したあの国に…。
老人は次の弁士を紹介し、マイクをかわった。なんと、そこに立っていたのは拉致被害者の実姉だった。
「私の妹は、鹿児島の浜辺でデートしているときに、北朝鮮に拉致されました。ある日突然、恋人とデートに出かけたきり、行方不明になったんです。そしてつい最近、その二人が北朝鮮にいて、生きているということがわかりました。北朝鮮を脱出した、元工作員の証言でそのことがわかったんです。私たちの父は、一昨年に病気で亡くなるまで、いつか必ず娘が帰ってくることを信じ、待っていました。亡くなる直前まで、私たちに対して、日本を信じろと、日本人を信じろと言っておりました。どうか皆さん、この拉致問題を他人事と思わないでください。皆さんの身近なところで、このような事件が起こりました。これから先も起らないという保証はありません。2度とこのような悲劇を繰り返さないためにも、日本政府に対し、拉致被害者の早期救出を求める声を挙げてください」
先ほどよりも多くの通行人が足を止め、聞き入っていた。署名グループの中には、涙を流している人もいた。
「よかったら、署名にご協力いただけませんか?」
20歳くらいの青年がクリップボードを差し出してきた。水戸黄門の顔を見ると、鷹揚に頷いている。僕が黙って署名をしていると、水戸黄門が脇腹をつついて合図を送ってきた。手を、印籠を持つ形に構えている。僕は署名を終え、印籠を取り出して青年に見せた。
「この紋所が…」
台詞を言い終わらぬうちに、青年は目を見開いたかと思うと、深く頭を下げて踵を返した。
「あれ、黄門さま…?」
「良いのじゃ。見ておれ」
すると、弁士が拉致被害者の実姉から先ほどの青年に交代した。青年はよく通る声で、演説を始めた。
「僕はつい最近、北朝鮮による拉致問題を知りました。拉致というと難しい言葉に聞こえますが、要するに国家による誘拐事件です。北朝鮮は13名の日本人拉致を認めましたが、実際にはその何倍もの人数が拉致されているとも言われています。拉致されたのは、何の罪もない、ごく普通の市民です。横田めぐみさんは、わずか13歳で、部活の帰りに拉致されました。いったい警察は、何をやっていたのでしょうか? 国境を守るべき自衛隊は、その任務を果たしていたと言えるのでしょうか? 僕は一介の大学生に過ぎません。しかし有権者の一人として、この問題に黙っていることはできません。もし僕に誰かが戦う武器を与えてくれるならば、その武器を取り、北朝鮮に行って拉致被害者を救いたい! それくらいの気持ちで、今日はここに立ち、署名のお願いをしております」
その激しい演説に、署名グループや通行人に緊張が走ったように思えた。先ほどの拉致被害者家族は、署名用紙を抱えたまま涙を拭っていた。
*
歴史VR授業の翌週、僕らは博多埠頭の突端に立つ拉致被害者像を見にきていた。この座像は、拉致された当初の横田めぐみさんをモデルにしている。昔の中学校の夏服を着ており、心持ち不安そうな表情に思える。
「この人はなあ、お前たちくらいの年齢で拉致されて、日本に帰国するまで半世紀以上の時間を囚われの身で過ごしたんだ。青春時代を奪われ、望まない結婚を強制され、何より両親兄弟とのかけがえのない時間を奪われてしまった。帰国したときにはもうおばあちゃんだ。その気持ちがわかるか?」
「当時の北朝鮮という国は、日本よりも強かったんですか?」
リュウが、みんなの疑問を代弁した。
「いや、国力としては比べものにならないくらい日本が強かった。違うのは、北朝鮮が核実験を繰り返していたということかな。とはいえ、それも不完全なもので実戦に耐えうるものでなかったことは後に明らかになっているがね」
「やっぱり、憲法9条がまだあったせいでしょうか?」
「旧憲法が停止されたのはたった4年前だ。自衛隊が拉致被害者を救出したのは15年前だから、正解とはいえないな」
僕は、歴史VRで見た平成時代の街頭署名活動を思い返していた。
「先生」
「なんだ、ムネキヨ」
「先週のVRの中で、大学生が武力による拉致被害者救出を訴えたときに、みょうな違和感を感じました。なんていうか、空気が変わったような…」
言い淀むと、マサルが口を挟んできた。
「でも、特別な事件は何も起きませんでしたよね。あの日、何か歴史が変わるようなことってあったのかな」
「二人とも、良い視点だ。あの大学生はな、本田邦成という人物で、いまの政権与党である国民独立党創立者の一人だ。あのあと一貫して拉致被害者の武力奪還を主張し続け、令和十三年の拉致被害者奪還作戦に結実したんだよ」
「ええ、それって当然の主張じゃないですか? だって、北朝鮮は兵隊を使って日本人を拉致していたわけでしょう?」
「マイ、それは現代のわれわれの感覚だよ。当時の日本人は拉致被害者救出のためとはいえ、武力を行使するなんて夢にも思わなかった。大多数の国民がそうだったから、政治家もそれを決断できる人物はいなかったんだ。しかし本田を中心とするグループが派兵奪還論を唱え続け、徐々に世論は変わっていった。それでも実際に行動に移すには、中国大陸の動乱を待たなければならなかった。中国動乱の余波が朝鮮半島に及んだとき、やっと首相が決断を下した。北朝鮮軍の抵抗は凄まじく、当時の自衛隊からも多数の戦死者が出て、出兵に際し国会の承認を得ていなかった首相は、直後に与党から除名処分を受けている。先生は教師になりたての頃だったからよく覚えているが、首相への批判は物凄かったんだ。日本の空気が変わったのは、帰国した拉致被害者たちが北朝鮮での悲惨な暮らしぶりを公表してからだった」
僕らが生まれる少し前に、ボロボロに傷ついた自衛艦がこの博多埠頭に帰ってきた。自衛艦のタラップから降りる大勢の拉致被害者たちを映した動画は、銅像の除幕式を伝えるニュースでも流されていた。
銅像の台には、拉致事件の概要を伝える文章とともに、ブルーリボンが嵌め込まれている。このリボンの青色は、日本と朝鮮半島の間にある空と海を示し、救出運動に携わった人々は、拉致被害者の早期帰国を願って、リボンを身に付けていたという。
「なんだか、残酷な話だよなあ」
ヨースケの呟きに、マイが続ける。
「そうね。平成時代の日本は、いまよりずっと平和で豊かだったんでしょう。それなのに、一部の国民が外国に連れ去られて、半世紀も放置されていたんだもんね」
博多湾に寄せる風は冷たく、海は日の光に輝いて青かった。
(続く)
本山貴春(もとやま・たかはる)戦略PRプランナー。独立社PR,LLC代表。北朝鮮に拉致された日本人を救出する福岡の会事務局長。福岡憂国忌世話人団体・福岡黎明社事務局長。大手CATV、NPO、ITベンチャーなどを経て起業。