「日韓合意の歴史的意義」

元・厚生労働大臣 長勢甚遠

 民族の桎梏となった合意

昨年末に岸田外相が訪韓し、慰安婦に関する日韓合意が成立した。秋の安倍、朴首脳会談から予想されていたことであり、総理も大きな決断をされたものと思う。合意内容は
(1)日本は軍の関与のもとに多数の女性の名誉と尊厳を傷つけた。日本政府は責任を痛感。安倍首相が「心からのおわびと反省」を表明する。
(2)元慰安婦への支援を目的に韓国が設立する財団に10億円を拠出する。
というものであり、安倍首相が朴大統領に電話し、おわびと反省の気持ちを伝え、合意内容を確認した。

今回の合意に与野党を問わず反対するものは見られない。嫌安倍のマスコミも好感を示しているしアメリカは歓迎している。わずかに親安倍の一部が危惧を表明しているくらいだが、といって安倍批判は自粛している。

今回の日韓合意の評価は私にとっても悩ましい問題だ。

合意内容は韓国の言いがかりとそれと結託した国内反日勢力及びアメリカの圧力に屈従したもので日本の尊厳に悖る耐えがたいものである。安倍首相とてこの合意は望ましい決着とは思っておられないであろう。それでも合意を決断されたのはこんな言いがかりのつけを子孫に残してはならないという思いであろう。それは政治家として取るべき道であり、総理がそのことを強く言明されていることに敬意を表するが、総理もこれによるきちんとした展望に確信が持てないのではなかろうか。表面上、慰安婦問題は決着したとしても(それも不明だが)、この決着はより大きなつけとなってこれからの世代の重荷となる可能性が高いと推測されるからである。そういうことにならないように神に祈る気持ちであるに違いない。

屈辱をしのんでも現実情勢に対応すべく国のために決断するのは政治家の義務である。安倍総理が涙を呑んで信念を枉げて合意を決断されたことを評価したい。

この屈辱が日本の将来に吉となるか凶となるかはわからない。この合意を強要した勢力と闘う意思が国民にあるか無いかで決まることである。これからこそ日本の在り様を不可逆的に破壊しようとする勢力との戦いが重要となる。一時後退してでも次に取り返すことに望みを託すというのが今回の合意でなければならないと思う。今回の合意が根拠となって後退し続けることになれば、今回の合意は民族の桎梏となる。そのようなことにならないように今回の日韓合意が国内、国外に持つ歴史的意義をよく考えてみる必要がある。

日韓合意のあった何日後かにタクシーに乗ったので、運転手にどう思うかを聞いてみた。「不可逆的に韓国が慰安婦問題を持ち出さなくなるということだからよかったのではないか」という答えであった。大方の人はこのように思われていることだろう。それにより安倍内閣の支持率は上がると予想される。

しかし、これは危険な誤解だと思う。私は「不可逆的というのは韓国のことではないのですよ。日本は悪い国ではないということを日本は未来永劫主張してはいけないということなのですよ」と話した。運転手は「そんなことだとは思わなかった。それなら困ったことだ」と答えた。このことをよく考えてみることだ。

 本当の敵を知るべし

外交は国益をかけた戦いであり、経済的利益を争うことが多いが、経済的利益を捨ててでも守らなければならないより大事なものは国の尊厳、心を守ることであり、それ以上に最も大事なものは国民の命である。経済的利益のために国の尊厳、心を捨てれば国民の命をも失うことになるのが歴史的事実である。つまり、国の尊厳を守ることが外交の最重要課題である。あの小泉総理は中共・アメリカの圧迫、国内反日勢力・経済団体の圧力にも耐えて靖国参拝をやめなかった。ブッシュ大統領との会談に立ち会ったことがあるが、ブッシュにも靖国問題で文句をつけさせなかった小泉総理に敬意を表する。

今回の合意で最も議論されるべきは慰安婦像の撤去が確実なのかというような目先のことではない。この合意のもとで日本の尊厳、日本の心が守れるかどうかである。これにより、日本国民が日本の尊厳を守ることに自信を喪失し諦めるようになればそれこそ亡国というべきであり最悪の事態といわねばならない。

以下に述ベることにはさしたる根拠はない。異論は多いであろうしそれに反論できるとも思わない。しかし、今後起こることには私の推測と合致することが多いと確信している。

私は今回の合意の本当の相手は韓国ではないと考えている。本当の敵は、国内反日勢力であり、アメリカ・中共であると考えている。慰安婦問題では決定的に国内外で大きな力を持ったのはフェミニズムの運動の浸透だったと考えている。

何故安倍首相が決断したかについていろんなことが言われているが、それらはいずれもこのことを裏付けるものといえる。

安倍総理を決断に追い込んだ表に現れた最大のものはアメリカであろう。

オバマ政権はかねてから安倍政権を危険視し、日韓関係悪化は安倍とその側近の言動にあるとみなし、七十年談話で村山談話を承継すると言明させるために圧力をかけるなどしてきた。オバマ大統領は慰安婦問題については「はなはだしい人権侵害」との認識を隠すことがなかった。韓国の慰安婦問題に関する過激な言動もアメリカの支援に勢いづいて行われてきたと考えられる。

アメリカは従来歴史問題については不介入の立場をとっていたが、今回それを変換し積極的に介入することとしたのには、これらに加え、アジア・太平洋における中共の台頭に対処する必要を生じたからに他ならない。韓国が経済問題、歴史問題から急速に中共に接近するなかで慰安婦問題で日韓が対立し中共による韓国の引きはがしが進捗することは、米日韓の安全保障体制を強化したいアメリカにとって重大な問題となったということである。このため韓国に対し日本に完全譲歩させることを条件に日本との合意を持ちかけたということであろう。韓国は今年大統領選があり、朴は苦しい情勢にあると言われ、韓国経済界から日本との融和を迫られていることもありアメリカの申し出を受け入れるものとしたものと思われる。

このアメリカの介入は安倍政権にとっては非常に厳しいものであったに違いない。しかし、安倍政権にとっても中共が台頭し中韓による日本たたきが進む情勢では頼るのはアメリカしかなく、加えて韓国との融和を主張する経済界や慰安婦問題で国際世論を背景に日本批判を強化する国内反日勢力の攻勢という重囲の中でアメリカの要求を受け入れざるを得ない窮地に立たされることになったと言える。安倍政権の唯一の条件は韓国がこの問題を蒸し返さないことだったと言われるが、これに対してアメリカは、合意に達すれば歓迎声明を出し米国が合意の「証人」となると申し出たといわれる。アメリカは韓国に対しても対日に有利な何かの約束をしていることであろう。ここに至って安倍総理も決断せざるを得なくなったものと推測する。

このことは日韓合意についてのアメリカの声明から明確に読み取れる。

ケリー国務長官、ライス補佐官は合意を歓迎する旨の異例の声明を出し、米国が水面下で「建設的役割」を果たしたことを強調している。これは日韓がアメリカの支配下にあることを示し中共をけん制するためのものであろう。

ライス補佐官は「合意は第二次大戦中の『慰安婦』の悲惨な取り扱いについて最終的かつ不可逆的に取り組むことを明らかにした」と評価したと伝えられる。これは日本の女性虐待を今回合意を根拠にさらに追及できることになったとの勝利宣言と解される。

米国紙での論評は、慰安婦で日韓がこじれたのは日本の硬直的な立場が原因であり、安倍が歴史的事実を受け入れ、朴は政治的リスクを冒して日本に歩み寄ったとし、日韓合意を評価している。これでは一方的に日本が悪者ということになる。国内反日勢力は大いに力強く思っていることだろう。

今回の合意についてはアメリカと中共は了解のうえで進められてきたと思うのが当然であろう。中共は支那の慰安婦も念頭に韓国と同じ立場にあることをアピールし、これで日本の対中カードが増えることはないとして、韓国が中共の支配下にあるとけん制した。今年の北朝鮮による水爆(?)実験の強行もアメリカとのバランスを維持するための演出とみることができ、アメリカも暗黙の了解の上のことであろうと思われる。日本も韓国も北朝鮮もアメリカ、中共のアジア・太平洋共同支配の手駒ということだ。

このように考えると、日韓合意後に起きてくる事態もわかるような気がする。それは日本人の多くが考えるような甘いものではない。

日本政府としては、この合意により日韓関係の新たな展開を期待したいところであろうがどうであろうか。

日本側が期待する効果のひとつは韓国との安全保障分野での協力強化であろうが、これはアメリカの狙いであり、進むであろう。しかし、対北朝鮮、対中共抑止の効果は期待できない。東北アジアについての発言力は日韓ともないからである。

日本としては日本産水産物の輸入規制解除、元徴用工への損害賠償訴訟の善処、国際社会に対する日本批判の自粛などを期待しているといわれるが、これらはもともとただの難くせであり、今回の日韓合意の対象でもないことだから、その解決のためと称して新たな落とし前を要求してくることになると思われる。

それどころか、慰安婦像の徹去は当面期待できそうにない。その実現がないからといって合意の履行を拒否することは日本はできなくなってしまっている。そんなことは韓国はもちろんアメリカも許さないし、外務省、日本の経済界も許さないだろう。彼らは日本の尊厳を守ることにはまるで関心がない。現に岸田外相は少女像に関しては適切に移転されるものと認識していると控えめに述べている。岸田外相は、韓国が慰安婦問題を世界遺産の資料登録を申請するという問題についても韓国は加わらないであろうとの見方を述べるにとどめている。おそらく外務省はこれらについて韓国のやることを支持するということで了解し合っているものと推測される。外相発言はそのための国民向けの事前工作というものであろう。

 屈辱に耐える覚悟を

日本政府は日韓合意を歴史的成果と自賛している。そんなものであるわけがない。安倍総理の決断は評価するが、今回の合意は日本の尊厳を否定することを正義と主張する国内外の勢力の連携した攻勢には抵抗できないという現状を反映した屈辱的なものである。すなわち日本政府が反日的歴史認識を具体的に認容することを公式に世界に表明したものであることに疑いの余地はない。この合意を契機にいろんな言いがかりが国内外から突き付けられ、認めさせられることになることはわかりやすいことである。敵はかさにかかって次々に日本に言いがかりを認容するよう迫ってくることだろう。日本政府は韓国に対し今回の合意の誠実な履行を要望しているが、韓国が考えることは今回の合意のフォローアップ、深化拡大であろうし、国内の反日勢力の矛先もそこに向けられることになる。

これが、今回の日韓合意の歴史的意義であると考える。

我々はこの屈辱に耐えなければならない時代を生きていることを強く認識しなければならない。そして怒り、悲しみ、耐えなければならない。この認識を持ち続け、まず国内の反日勢力を掃討し日本の心を取り戻したときに、新しい時代が明ける。
(本会正会員)

「国体文化」平成28年3月号所収)


【執筆者略歴】
昭和18年、富山県富山市に生まれる。昭和41年東京大学卒業、同年労働省(現厚生労働省)入省。同61年労働省労働法規課長、同63年労働省退官。平成2年第39回衆議院議員選挙に初当選。同11年労働総括政務次官、同12年衆議院法務委員長、同13年法務副大臣、同14年から17年まで衆議院厚生労働委員会筆頭理事、同17年官房副長官、同一八年法務大臣などを歴任。同24年に引退するまで連続七期衆議院議員を務めた。同25年秋の叙勲で旭日大綬章を受章。
著書に『シルバー人材センター』(労務行政研究所)、『豊かな勤労者生活に向けて』(近代労働経済研究会)、『確定拠出年金が産声をあげるまで』(労務行政研究所)、『新しい食品衛生法のあらまし』(労務行政研究所)、『甚遠のおもしろ草子』(長勢甚遠著述集刊行会)などがある。

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