日露戦後から支那事変に至る日本の内政と外交 ― 英米との比較から考える

第42回国体文化講演会 講演録
文学博士(京都大学)・一燈園資料館「香倉院」・里見日本文化学研究所客員研究員 宮田 昌明

本稿は、第四十二回国体文化講演会の速記録(平成二十七年三月六日、学士会館)を基に加筆頂いた。

こんばんは。本日はお忙しい中、ご来場いただき、ありがとうございました。私事ですが、昨年九月、『英米世界秩序と東アジアにおける日本――中国をめぐる協調と相克 一九〇六~一九三六』という専門書を、本日の講演を主催しております日本国体学会のお力添えで錦正社さんより出版いたしました。今年は大東亜戦争終結から七十年となります。中国や日本の左翼による、歴史問題を利用した様々な政治策動がすでに具体化しています。本日は、本書よりいくつかの論点を紹介しながら、歴史論争に備え、新たな日本近現代史を構築していくための手がかりについて話してみたいと思います。

本書は非常に大部の本で、一般の方には近寄りがたいものかとは思います。しかし、日本近現代史研究が左翼偏重であることは、皆さんもよくご存じの通りです。朝日新聞による従軍慰安婦捏造や南京大虐殺捏造など最たるものですが、いずれも、朝日新聞の単独犯ではなく、様々な活動家、弁護士、そして研究者が関与していました。政治運動する研究者は、運動の観点からしか歴史を捉えることができません。ですから、その歴史は一般の人にとって非常に歪んだものになります。かといって、専門家の研究に対し、普通にお仕事をされている一般の方々がその誤りを指摘をされても、研究者は権威主義に閉じこもり、批判を無視するか、見下すことで自分を守ろうとします。

結局、状況を少しでも変えるために必要なのは、確固たる専門書を提示することと思いました。ただし、これも業界の悪弊ですが、専門家による研究の評価は、実は内容では決まりません。たとえば私の場合、本書について一応、出版のための助成を申請したところ、独創性がない、という理由で却下されました。それで当初予定していた出版社は、まったく相手をしてくれない状況になりました。助成金というのは公のお金ですから、交付に際して正当な理由が必要です。どこかの大学教授の業績に助成がなされず、無名の私の研究に助成がなされるというのは、無条件ではあり得ないことです。

研究業界の権威主義、建前に縛られ、中身を問わない官僚主義は、研究の方法にも反映されます。日本近代史においては、世界のどこにも存在しない理想を想定し、それに比べて遅れているとか、民主主義的ではないとか、難癖をつける研究がいまだに横行しています。それが彼らの政治運動に直結しているわけです。しかし、国や文化、歴史について、それを善悪で裁断するのではなく、それぞれの特徴、つまり善悪を超越してまずは対象を理解する、様々な習慣や行動様式の全体的な合理性や体系性を捉えていく、という謙虚な姿勢が、本来の研究の在り方です。ただし、そうはいっても、その実践は難しいことです。だからこそ、プライドの高い研究者は、対象を批評するだけで理解した気になってしまったり、政治運動の一環として歴史を扱いながら、自らは学問をしているかのように勘違いしたりするわけです。

本日の講演は日本外交史が中心ですが、外交についても、国々の文化や価値観が明確に表れます。ある国の文化や資質、国民性といったものが、その国の政治の在り方に大きく影響する、ということは比較的想像しやすいのではないかと思います。ところが、文化や価値観の違いを無視して、外国の制度を安易に日本に適用しようとする考え方は、今でも強い風潮としてあります。しかし、歴史的に各国の価値観や様式を、それぞれ異なる合理的体系として捉えることは決して不可能ではないし、そういう作業をしなければ、本来、異文化間の相互理解など不可能と思います。

最初にそれを、自由主義、民主主義という概念を例に、考えてみます。イギリスやアメリカの場合、それらは、国家に対して個人の権利を守る、という原理に基づいて成立した理念です。たとえば議会も、歴史的には国王に対して貴族が自らの特権を守るために作ったものですから、議会の起源は民主主義とはむしろ異質なものでした。現在、民主主義の原則とされるものは、ほとんどが貴族の権利を擁護するためのものから始まり、民衆の政治参加の拡大に応じてそれらが民主化していく、という経過をたどりました。対して日本の場合、自由主義や民主主義とは、国家や社会に対し、個々の国民が権利を得ると共に一定の責任を果たす、つまり、国家や社会の中で人々が特定の役割を担っていくその主体性を、自由主義や民主主義の根幹と捉えているのではないかと思います。こういう考え方は、共産主義を信奉する人々には受け入れられないでしょうけれど、本日ご来場の方々には理解しやすいのではないか、と思います。

このように、自由主義や民主主義といっても、歴史的背景の違いによって対極的な考え方になってしまう、それが歴史の難しいところです。先ほど、文化によって政治の在り方が変わるという話をしましたが、それは外交についても同様です。ところが、この点は、まだまだ理解されていないように思います。たとえば、憲法九条を信奉する方々は、あらゆる紛争を外交で解決するよう求めるわけですが、そういう人に限って、外交に関する知識は皆無です。要するに無い物ねだりをしているわけです。

今日は、そういう幼稚な考え方ではなく、文化の違いによっていかに多様な外交が生まれるのか、より具体的には近代日本の政治、外交がどのような体系の下に展開され、それは他国と比較してどのような特徴を持っていて、それらはどのような結果をもたらしていくのか、それを考えていきたいと思います。そこでまずは、戦前の日本と、イギリス、アメリカの政治、外交の特徴から本題を始めていきます。特にイギリスやアメリカ外交を理解する際、その世界戦略を理解することによって、東アジア外交の底流に存在する両国の発想、行動様式が明らかになってくるかと思います。

  一九二〇年代の日本の民主主義と経済・社会政策

最初に日本について、主に一九二〇年代の内政を取り上げます。一九二〇年代の半ば以降、日本では政友会と憲政会ないしその後継政党の民政党という二つの政党によって政権が交代される二大政党内閣の時代を迎えます。そもそも日本の議会は、天皇の立法権を国民の代表が代行する機関として出発しました。ただし、当時の大日本帝国憲法は、その制定時において、政党政治を全く想定していませんでした。また、内閣総理大臣がどのように選出されるかについても全く規定されていませんでした。それでどうやって首相を選ぶかというと、要するに有力政治家の談合によって首相を選んでいたのです。それに比べると、現在の日本国憲法は、議会の指名によって選ぶわけですから、一見すると、民主主義的な手続きに則り、わかりやすいように思えます。しかし、議会による指名といっても、実際は最大多数の政党の代表が首相に選ばれます。しかもその代表は、多数派工作や談合の結果選ばれるわけですから、現行憲法は体裁を取り繕っているだけで、本質的な差は意外にありません。今日の観念的な思い込みを除外すれば、明治憲法の下の首相選択の方がごまかしがなく、むしろ明快です。

戦前の日本の首相は、首相経験者やそれに準ずる有力政治家の談合によって選出されたわけですが、一九二〇年代においては西園寺公望という人が、最後の元老として、首相選択において大きな役割を果たしました。しかし、元老は、権力を有するからこそ、責任も有するということで、西園寺の場合は、国民に受け入れられるような政権選択に苦慮しました。第一次世界大戦後、日本も大国として国際的評価を受け、さらに日本国内にも選挙権の拡大などを求める運動が高まっていました。そうした中で西園寺は、大国にふさわしい、民主化の気運に対応する政権の在り方として、政党内閣を成立させました。今から、二、三十年も前の研究者には、元老が選択した政党内閣を民主主義と見なすことに矛盾を感じる人が多かった、というより、ほとんどの方がそうでした。しかし、そもそも両者を対立させる発想が観念的であって、実際は、明治憲法を民主化の時代に合わせて柔軟に運用した結果、政党内閣が成立したのです。

この時代はまた、今日に連なる、国家と経済、国民生活に関わる様々な政策が導入された時代でもありました。要点をまとめると、日露戦争後、日本は外国からの借金や、貿易赤字に苦しんでいたため、円の国際的信用を高めなければならない、という状況にありました。そこで、円高政策をとらざるを得なかったのですが、すると、日本の輸出業に大きな負担を与えてしまう。そうした長期的な円高政策を見越して、企業の国際的競争力をつけるため、重点的関税政策や企業への減税といった産業保護を導入します。しかし、一九二〇年代は、単なる産業保護だけではなく、日本の全体的な国力増進のため、労働者や農民の保護も重視されました。そうした観点から、健康保険法や自作農創設事業が導入されます。健康保険法は昭和二年に施行されましたが、たとえば今日でもなじみ深い、雇用者と被用者が折半で保険料を負担するという制度が、この時点で導入されています。この時点では労働者のみが対象ですが、この後、大東亜戦争勃発までに農民や扶養者なども対象とする国民皆保険制度が導入されます。こうした福祉政策に加え、一九二〇年代には米価の低落、失業、不況や関東大震災による不良債権などの問題が発生し、政府は財政出動によって対応しました。要するに、企業を保護する政策を導入しながら、企業に労働者保護の義務を課し、民間主導の経済成長、社会福祉の充実を促しながら、景気変動や自然災害などの影響を政府が緩和する、という政策体系が、一九二〇年代に導入されたのです。

ところで、こうした政策体系が導入される上で、一九二三年に発生した関東大震災は大きなきっかけになっています。この後、震災による不良債権問題処理をめぐって内閣が一つ倒壊する事態にもなるのですが、当時、考案された被災企業の基本的な再建策とはこういうものでした。すなわち、被災企業と出資金融機関の間で再建計画が成立した場合、政府が融資支援を行うというものです。関東大震災に際して、このような民間主導の再建を政府が支援する、という具体案がすでに提示されていたのです。二〇一一年に東日本大震災が発生した後、民主党政権の下で震災復興会議というものが設置され、その議長と議長代理に民主党を礼賛していた日本近代史の著名な専門家が就任しました。ところが、同会議は、消費税増税を提言しただけでした。歴史研究者が歴史に何も学んでいないのです。

なお、こうした一九二〇年代の日本の政策体系は、今日の日本では比較的理解しやすいのではないかと思います。こうした政策体系が、直後に日本を襲う世界恐慌への対策に活かされ、さらには戦後の経済再建や社会政策へとひきつがれていきます。日本の福祉政策は、基本的に大陸ヨーロッパに学んだもので、そういう背景も大きいのですが、先に述べた政治と文化の関連性という問題で整理すると、イギリスやアメリカとは大きく異なる制度設計となっています。社会保障といっても、健康保険と年金の違いもあり、乱暴な要約になるのですが、イギリスの場合、社会保障は全般に税金に大きく依存しています。対してアメリカの場合、国民皆保険制度自体がありません。個別に企業負担による保険制度はありますが、個人契約による民間保険が原則です。短絡的かもしれませんが、欧米、特に英米の場合、企業負担による国民皆保険制度を導入するのは、政治的に難しかったのではないか、と思われます。

一方、大陸ヨーロッパの健康保険は概ね企業負担と税金負担が基本であり、現在はそれによって、医療費の一部を無償化している国もあります。しかし、容易に想像できるように、このような制度設計は、医療費を激増させます。日本の場合、民間主導の国民皆保険制度で、しかも高度な医療水準と財政の健全性を維持しています。だからこそ、日本共産党はこれを目の敵にしているのですが、実際のところ、医療保険制度において日本ほど成功している国はほとんど存在しないのではないか思います。要するに、日本の場合、民間の一体性が欧米より健全に機能し、それが日本の民主主義と社会福祉を支えてきたということを、行政政策史的にも考えることができるのではないか、ということです。

 イギリス外交とアメリカ外交

次に外交について取り上げますが、日本については後述するとして、まずはイギリスとアメリカについて取り上げます。十九世紀のイギリスは、孤立主義を取っていました。これは、外国と同盟関係を結んだ場合、義務を負うことになるため、それを避けようとした結果です。国家の対外的義務は、国民負担となり、国民の主権を侵害しかねないと考えられたのです。

一九〇二年にイギリスは日英同盟を成立させますが、その後一九〇四年に勃発した日露戦争にイギリスは参戦していません。日英同盟は、同盟国が他国と戦争になり、さらにそれに第三国が介入した場合にのみ締約国の参戦義務を定めていました。つまり、日英同盟は、日露戦争が勃発した場合でも、それを日露二国間戦争に限定する抑止効果を持ったということになります。それによってイギリスは、自らの負担を最小限に、しかし影響力を最大限に行使することができたのです。この後、イギリスは、フランスやロシアとも協商を結びますが、いずれもイギリスの利害に密接に関わるアジアやアフリカの海外領の安全保障を主とし、イギリスはそれによって対ドイツ防衛、特にベルギーなどの低地地方の防衛に集中していきます。他方、ドイツとフランス、オーストリア・ハンガリー帝国とロシアの対立に対してイギリスは、一貫して中立の立場を取りました。

第一次世界大戦後、そうしたイギリスは、自国の影響力の低下をアメリカとの協力で補い、小国に対する影響力を国際連盟を通じて行使するようになりました。さらに第一次世界大戦前から戦後にかけてイギリスは、国家主権の尊重という国際原則を掲げますが、これは大国を小国で包囲しながら大国の独断的行動を封じ込めるために掲げた理念でした。一九三〇年代にドイツでナチス政権が成立し、周辺国と紛争を起こし始めると、イギリスはむしろ小国の主権を侵害してでも、ドイツの要求を部分的に受け入れ、大国間の合意を再構築し、ドイツの封じ込めを図ることになります。このように、イギリスの外交は、国益を保護し、自らの国力を最大限に効率的に発揮するため、柔軟な外交を展開していました。イギリスは、国家が国民に過度な負担を与えない、しかし自国の対外的権利を絶対に擁護する、という原則を貫徹するため、以上のような柔軟な外交を生み出したのです。

一方、こうしたイギリス外交とは対照的に、アメリカの外交は非常に硬直したものでした。アメリカの自由主……

………
(続く見出しのみ公開・全28頁)
 中国をめぐる通商条約とその他の外交問題
満州事変(一九三一年)前後
華北分離工作 (一九三五年)
一九三〇年代の日中関係とイギリス、アメリカ
大東亜戦争の米中側原因と戦後東・東南アジア史への展望
《講演後の質疑応答》

■講師略歴
宮田 昌明(みやた・まさあき)
昭和四十六年生まれ。平成四年京都大学文学部卒業。文学博士(京都大学)。大阪経済法科大学、帝塚山大学で非常勤講師を務める傍ら、一燈園資料館香倉院に奉職。主要業績に『英米世界秩序と東アジアにおける日本――中国をめぐる協調と相克 一九〇六~一九三六――』(錦正社、二〇一四年)「再考・済南事件」(『軍事史学』(二〇〇六年九月)『西田天香』(ミネルヴァ書房、二〇〇八年)ほか。『国体文化』でも「戦後世界秩序、東アジア情勢と日本――米ソ対立下の中国の動向をめぐって」(平成二十五年三月号・四月号)「日本史の中の天皇」(同年十月号・十一月号)など健筆を奮う。

(「国体文化」平成27年6月号10~37頁所収)
続きは月刊『国体文化』平成27年6月号をご覧ください。

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